制度干渉は制度に依存していて、価値を更新できないと考えてしまっていたが、間違えているのではないだろうか
マンゾーニの台座と、宇宙の缶詰を考える。
マンゾーニの台座は、美術の制度を利用しなければ成立しない価値観の構造で、宇宙の缶詰は美術の制度には依存していない。そのままでもその意味するところは理解できる。
といいながら、作品の構造自体は同じものと思う、その、人が長い時間変わらない世界の捉え方ということで見るならば
あと、モナリザにヒゲを加えることと、自然の風景を平面に描くことを既にある世界の要素の価値をシフトしたということで、同じ価値観を見るなら、台座と缶詰の違いとも同じ問題になる
であるなら決して制度干渉が更新と折り合わないものでもないのではと
自分の感じていた違和感を改めて考え直す
作家として、仮に制度干渉だけで作品を作っているとしたらその人の措定している前提というか空間が結果的に見えてきてしまうから狭く感じてしまうのだろうか
制度に自覚的な故に、制度を否定することで逆説的に制度にフォーカスが絞られる、画家のようなスタンス以上に結果空間が狭く見えてしまう
その作家の措定する空間というのはやはり重要なことなのだろうか
なんというかひと昔前のインスタレーションやってる美大生が絵画やってる人を軽視するようなことと同じ質の問題というか、
乱暴な捉え方なのだけれど、インスタレーションを言語的な構造みたいな価値観で捉えて、文学やらコミュニケーションデザインみたいな視座から捉えると別に絵画から価値の更新されたものではなくって絵画から違うカテゴリーの価値の体系に横移動してるだけと捉えられると思うのだけど、
前者の美大生の例みたいに美術のカテゴリーの中での時代の発展だけの視点でとらえてしまうと、軽視するような見え方になってしまう
文脈って言葉が良いのかわからないけど、作家もその人の作品の履歴からその人の措定している空間が見えて、それを踏まえた上での作品の意味が表れることになるのだろうと思うので、そこらへんの演出の為に「美術」の制度干渉を意識的に捉えるのか、ととても実践的で現実的なつまらない話
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論理的に穴だらけと思うのだけど、こうやってメモから検証してまとめていければと考える
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美術の制度を利用しているとその制度の賞味期限を直感的に感じるから作品のスケールが小さくなるのか
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制度もモチーフの一つと考えるようにする
美術の制度外から美術を作ることを考える
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制度に干渉してもそれだけではないものはかっこいい カルヴィーノもマグリットも
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作品、作家を見るとき、それと同時にその措定空間も見ているのかも