statement

作品は、伝達の為に、設計図となるメッセージを翻訳した媒体のようなものではなく、作った私であっても、その色や形態、言葉や文字の配列、或いは物体の位置やなんらかの行動、なんであれ構わないが、それそのものの本当の裏側を解読できているものではない。

例えば、誰かと歩いているとき、なんというものではない風景に美しさとでも言うなにかをお互いに見てしまっていること、お互いに気をとられていることに気がつき、「お前もあれを見ていたな」という目配せ、共感や同意の気分が起こることがある。私にも、彼人にもそのような気分が在ること、またそれとは独立した風景が在ること、ともすれば風景にもそのような気分が在ること、それらに信頼を寄せること、それが私の考える制作の意味である。

作品は、もしくはそれを形作るある要素は、およそその瞬間、各者の中継に、誰かが風景に気をとられる手続きと同じようにして、つまり「媒体」としてではなく、目配せのための「触媒」として、平滑な風景の中から突如として見出される。

とっかかりは、考えや記憶、意識の骨格、意味が削げ落ち、骨格の構造だけ取り残された状態。いや、骨格と言うよりも質量のない、例えるなら式のような状態まで風化され、ぼんやりと浮かんでいる記憶と、風景側にどういうわけかそれと同じ式をもった景色があらわれたとき、そこで起きる一致の直感。それが、よく言う琴線に触れるというような言葉で表される気分と考える。

価値は、目配せの熱っぽさ、その温度がそれを保証する。

作品に対しての言葉は、そこに語られる内容があるにせよ、それはあくまで見出された後に追跡する探偵としての言葉の役割でしかなく、発見に先んじ、例えば意識の中に既に在ったものではない。それは前述の式とは異なるものである。ある意味では、その言葉も風景と同じ場所の、作品と、もう一つの風景側から見出される触媒としての作用、作品であると心得る。

風景と作品は同じ側にある。

2021.7

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作品は、伝達の為に、設計図となるメッセージを翻訳した媒体のようなものではなく、作った私であっても、その色や形態、言葉や文字の配列、或いは物体の位置やなんらかの行動、なんであれ構わないが、それそのものの本当の裏側を解読できているものではない。例えば、誰かと歩いているとき、なんというものではない風景から美しさとでもいうようなものをお互いに見てしまっていることに気がつき、「お前もあれを見ていたな」という共感が起きることがある。そのような意識の共有が在ること、またそれとは独立した風景が在ること、それらに信頼を寄せること、それが私の考える制作の意味である。

2019