ドローイング_猫

しばらく猫など構う気がわかなかったのでここにいるのは久しぶりなのである

しばらくの忙殺から解放され(他のスタッフと比較したら、自分のそれは実際的な物量というよりは、感覚的な不透明感だったので文句を言う身分ではないが、忙しいとはそういったことでもあるように感じる)  といいつつ次の波は目の前に迫っているわけで、まぁこのタイミングが周辺を整えられる僅かな間隙なのかもしれない

というわけで、少ない時間とはいえ狭い室内を片付けてなかなか良い状態の配置に仕上げることができたのだ、こうなると次の展開がやっとのことで開けるわけだ。

頗る気持ち良い

で、なにか根本的なことが気になったのである。これは美学とかになるのだろうか?よく知らない。掃除をして綺麗になったと私は快適で気持ちが良い、その綺麗というのはなんなのだろう。例えば、埃にまみれている調度やら、絡みついたコードやら健康や不便に関わるから?今まで生きてきて、掃除、片付けというものの作業の着地点というものを漠然とわかった気になっているのだろうが、ものものがすっきりと箱に収まっている感覚やら、使う道具になんの障壁も無くアクセスできる感覚やら、一見簡単な物事のようで仮にこの意味、感覚を改めて言語で示せと言われたらできる気がしないのだ、

なんでこんなことを思ったかというと、仕事でグラフィックの作業があり、伝達のための必然性やら配置の美しさやらを素人なりにも格闘している際の難しさが、不思議に自分の室内のそれにオーバーラップしたのである

そして、これは当然、絵にも文にも完全に一致する感覚なのだ

そして、片付ける、というその価値観の手強さはあなどってかかってはいけないものなのだと

そういえば、最近物凄い作家のアトリエに仕事で入れる機会があり、そこに充満している調和は、完璧だった。

その残像が意識にこびりついて、いろいろな感覚に触媒のように作用しているのかもしれない、やはり伝説なのだ。

と、そんなことを話していたら同僚にジャコメッティのアトリエは汚かったらしいぜと指摘された、自分の価値観で世界は都合良く捉えてしまうものではあるけれど、そこには別の調和があったのだと信じてみたい