ドローイング_猫

私は久しぶりに猫を自宅に招き入れ、食事をふるまう。

といっても、簡素なものだ。ことあるごとに作ってしまうオイルベースのツナパスタにする。猫なので玉ねぎは入れない。簡単といっても、冷蔵庫に残っているケッパーとオリーブを入れればそれなりにはなる。

どうせこれから外出する気もないので、ワインも開けて猫とパスタを食べながら机の上を眺める。

こいつを呼んだのは、その配置にまつわる美しさを誰かと考えなければならないと思っていたからなのだ。

私の机は作業効率を考えて、常にグリッドのひかれたカッターマットが敷いてある。なにかこの議題には御誂え向きなセッティングといえる、猫はパスタの皿とその他のものをなんとなしに動かす。

テーブルに向かい合いながら、筆立てやら時計、領収書、そしてこの食事の皿を囲碁や将棋でもするように互いに配置し直していく、食事に不都合があってはいけないだろう、直線の動きに整合性は必要で、食べ物と領収書は離さなければいけないし、もの同士の間隔は均等にしたい、ある種の群についてはまとめて配置をすべきで、パスタが二つともお前の方にあるじゃないか、と次から次へと、お互いの価値観を口にだして動かしていく。

ワインが空いて、コーヒーを飲みだしたころお互いに同意できる感覚が共有できるようになる。完全にこの価値の仕組みを言葉におこすことは複雑すぎてとてもできないだろうが、その美しさは共有できる。

これは、その必然性を共有できるということは絵画やグラフィックと近いことがらを俺たちはやっていたんじゃないかな?

私は猫に問いかける

猫は肩をすくめ、また大きくでたもんだなと眉を上げた