批評的に自らを捉える言葉だ、暗い。自己言及的な表現が純粋だなどというのは本当なのだろうか。果たしてそれは必要なものなのだろうか?誰かに向けた言葉は不純だろうか?伝達のツールではなかったのだろうか?
合わせ鏡のような言葉ではなく、誰かに向けて喋りかけることに価値を見出せるのであるならば、いや、そもそも、そんな考えがおきることはおかしなことだ。
写実や、伝達こそが、日常の会話のようなものこそが純粋なのではないか?
気分と風景の間に摩擦が起きて、そこに熱量が生じる、伝達の必要が起きて、物理法則のようにそのカロリーを伝搬させる。そういった動きの軌跡のようなものがそもそもだったのではないだろうか?
考えてみれば、日常会話に使う要素は日常に意識が反応している世界の割合に符合している。毎日野球の放送を見ていれば、誰かと野球の会話が生まれるし、毎日ニュースを見ていれば、政治の話もするだろう。魚釣りのことを常に考えていれば、他の釣り人との会話がうまれるというように
批評的では会話は生まれない
ある時代の求めた理想のように、自己言及の果ての潔癖なキューブのようにここを見れたらという野心もある。
頭が良くないので、せいぜい継ぎ接ぎの上野駅みたいな構造でも作れたらそれでも満足なのだけれど、誰もいない構内を作り上げたところで、さっきの価値観で捉え直してしまうと、駅を媒介にした流動性のダイナミズムにこそ意味も見るべきなのではないか、などと考えるのだ、