ドローイング_猫

意味の彼岸に惹かれている

決して意味に絶望したわけではないが、粘土を捏ねるように、文を綴らず、毛糸のだまのように纏め積むことが可能ならばと

少しずつ手元に纏めしばらく会わずにいた、実家の猫に会い緑茶をこの炬燵のあの、明日は紙を買い車をだそうかと、これは詩になってしまうのだろうか?いや、詩は形式への意識が結局はあるのだろうから本当は詩ではあらずに、猫の頭をカメラのレンズ越しにフレームを考えてあっという間に語彙が枯れ果てる、直接入る情報を素手で纏めるような、食事の塩分の、結果ロジックを信頼しないのならこの手触りは確かにしなければいけない、粘土のように質を確かめていかなければ、というのは希望の静かな街の音を見て、起き出した猫の

なにも言わないことは、それではないので直接触れた気分を、どちらかというと音楽を扱っているのか?絵の具の成り行きか、ただし安易なのではないかという疑惑は拭えない、この冷たい部屋の凍える布団と、明日のこの少しの休暇の予定と希望と計画、

意外とというか、予想どおりなのか、見ている風景などというのはこの程度のもので、写実的に風景に対して触れてみてもこんな量なのかもしれない。いや、そう早急に決断を下すことはない。

本当にドローイングのようにこれを扱えないのだろうか?線をぐっと引いてなにかが見えるように、それを並べ替えるのはまた先延ばしにしてしまうように軽快な筆致でと誰かに諭されたような健全な刺激の無さ

そういえば、会話の必要は意味が消失してしまえばなくなってしまうのだとしたら、少し前?少し前はもういい

表現とかいうものがものの世界に越えていってしまえば、そういうことに惹かれて言葉なりを混ぜ合わせで散らばっている砂を掻き集める