文章を書くときも、話をしているときもなのだが、一貫性を持たせることが苦手だと思う。ここで書いている文章にも出ていることだと思う。論理的な思考をする能力になにか問題があるのかもしれない。自分の考えの動きは連想ゲームのようで、頭の中では、思い付きが空間の中で線香花火の小さな火花のように連鎖しながら目の前を飛ぶ羽虫のような不規則な動きではじけ続けているような感じとでも喩えてみる。
その小さなスパーク、なんらかの考えから次の考えへの想起、類推、対比など。その変化、その瞬間の運動には意味、意識があるのだけれど、流れの全体感がないから、その変化の場面ごとに異なる方向に、話の向きが変わってしまう、かと思えば前に話していたテーマにいきなり戻ってみたりもする。いきなり何話してたかわからなくなることもある。そのとき線香花火のように中心の火球はない。ただ、羽虫が不規則に飛び回る範囲はどうやらある程度はあってなんらかの仮の中心点、着地目標みたいなものはあるのかもしれない。街灯や、二酸化炭素、体温のある人間の頭部のような感じで。
その挙動の軌跡の残像は、記憶として式やベクトルデータのような形で頭の中にうっすらと残されるように思う。
文章だと一回つらつらと書きなぐった後で、流れの矛盾やぎこちなさなど、接続語などを調整してと一応はやっているのだが、あくまで考えの後の編集の作業であって、もともとの意識の運動にはそのような編集者の意識はない。思い付きと衝動が支配している。編集は技術的な話だと思うので、鍛錬しなければという気持ちはずっと持っている。
多分会話の場面などではその不規則な挙動がより顕著に出ていると思う。会話の流れブチ切った、あぁまたやってしまったと焦ることがしばしばあり、都度反省はしている。不条理なコントなんかでそういった会話をする不穏なキャラクターを見かけることがたまにあり、あぁこれは自分だ、と思い省みるのだけれどなかなか直る気がしない。
会話は、相手に不快な思いをさせるだろうから出来る限り直していったほうが良いだろうけれど、文章はもしかしたらそう悪く捉えることばかりではないかもしれない。
前にも書いたと思うハイパーテキストについての本。思考についてもともとシーケンスがないものなのに、演説などで聞きやすさを作るためや、本や紙の媒体上の制約で無理矢理シーケンスを作ってるものが文章というもので、その変換の際にカットされてしまう全体の統一感や要素の相互関係を失うことなく、思考と近い媒体の形式を作るべきというような考えからハイパーテキストの設計がでてきたという話。
見た瞬間、あぁこれだ、自分の頭に感じていた感覚だ、なんて素晴らしい考え方なんだと感動した。勿論既にネットは普及していたけど意識的にとらえていなかった。(その本は思いの外古いものだったりする、そこで示された理想に現在なっているのかはわからない。まだ情報の信憑性なんかでは紙の本には敵わないように思うけど。)
支離滅裂な文章や論理は良いとされるものではないだろうから、無茶苦茶な考えなのかもしれないが、もしかしたらさらに一貫性や統一感でもなく、瞬間の考えと運動の連続だけでも良しとできることがあるのかもしれない、なんてことを考えてみる。これは、文章以外のものに対しても。
以前の自分の作品でそんな感覚を少し持っていたような気がする。また、個人的な感覚だけど、詩では、一貫性よりも火花の連鎖の間隔や距離、より遠くの連関を引き寄せることのほうが重要な気がする。なんだかこれは、けっこう大きな考え方のシフトなのかもしれない。
そういえば、完全に断章しかないはずなのに、ペソアの言葉は本当に眩しい。
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火花の連続と言ってる時点で時間的な連続はあるのだけれど、スムーズな流れではなくて脱線したり急激な方向転換をしたりがあるということ。