迷うということをモチーフやタイトルなどに扱うことがある。何故かは良くわからない。そこに簡単に理由をつけてしまうと薄っぺらくなっていく気がするので下手に弄らないようする。こういうこれこれなテーマで作品作っていますみたいな言葉というのは、扱いを間違うと危険なものと思っていて、実は大して執着もないのに自分の発してしまった言葉に囚われてしまうようなパターンというのはよく見かける。というか、自分の経験からもそう考えている。人間なんて矛盾や自家撞着がいくつもあって当然なもので、そういったへんな束縛から自分を身軽にしておくようにするのも一つと思うのである。特に今の自分にとって、そういう束縛が外全般の興味にブレーキを踏む要因になってほしくはない。帰納的にやるべきではと思ったりしている。或いは他の誰かがそういうのを見出すとか。まぁただ、完全にまとめ無しでやってしまうのはそれはそれで、たとえば至近距離の誰かの影響だけになってしまうなんて危うさなんかもあるとは思うけど。
と、そんなことを宣ったあとにエピソードを話したら自動的に繋がってしまうと思うけれど、そういうつもりではないので予め断っておく。
自分は昔からけっこうな方向音痴で、道を覚えるのが苦手だったりする。だけれど、Googleとスマートフォン以降正直それほど道に迷うようなことは起こさなくなっている。そう思っていて久しぶりにやらかした。コインパーキングに車をとめて、目的の場所まで徒歩で行き、戻ろうとして完全にコインパーキングの場所を見失ったのである。Google mapsに駐車場をメモする機能があるのは知っていたのだけれど、数百メートルくらいの場所と過信した、これ、実際ほんとに過信なんて大袈裟な言葉使うような空間の範囲ではないのだけれど、冗談ではなく、本当に見つからなくなって、数百メートルの範囲内およそ30分以上は歩き続けていたと思う。徐々に焦りが出てきてふと頭をよぎったのだが、これ誰も助けてくれないことは勿論、というか誰も助けようがないことじゃないか。と
こういうのを昔話だったら狐に化かされたとか言えたのだろうか、なにかのせいにできたのだろうか。残念ながら今は2021年で、このやらかしは完全に自分が悪いのだった。そしてこの現代の都市でも未だにこんなことがあるのだった。
自分があほだからだけど。
改めて逆に気が付かされた、いろいろな都市のような普通の生活圏の社会のシステムやサービスやらなにやらというのは、例えばパスワードの失念の場面なんていうもの然り、周到なバックアップが用意されているものと思うのだった。自分の場合釣りなんかみたいな、自然というかそういうシステムの外にいる場面では、やはりわずかながらも緊張感をもっているものだったりするけれど、日常にも警戒心というのは必要だなと思うのだった。子供のころ、釣りをしていて川の中洲から戻り方を見失ったときの焦りをまさか東京のど真ん中で感じるとは思わなかった。
ワクチンというシステムを打った後のエピソード。