やばい(質量の)仕事が一息ついて、セットで漏れなく付かざるを得なくなってしまう面談で、身体の声を聞いてくださいと言われ、そうか、俺は感覚がバカになっているのかもしれないのかと気にしながらも、少しずつペースを通常に戻せている気がし始めている。
出勤前に寄った牛丼屋で、ガーリックバター醤油の味つけの定食を食べながら、流れているポップミュージックがなんだか気にかかった。気にできる余地が頭に出来たのだと思う。別にポジティブな感覚ではないし、さんざん語られている話なのだろうけれど、なんだって毎年毎年使い回されたフレーズを聞かされてるのだろうとただそれだけの感覚なのだけれど そんなことに気が向くのもなんだか久しぶりな気がしたのだった。
そのあとちょっといつもと違う気持ちが起きたのは、そんな音楽と天気の話題みたいな日常会話とを意識がリンク付けしたこと。バター醤油が触媒になったのかもしれない。
さんざん使い回されたレシピであろうと、無くなってもらっては困る。自分で肉や鮭を調理するときもことあるごとに使ってしまうし、それこそわざわざ外食ですらこうして食べている。まぁ、好きだからなんだけど。
そこに新しいレトリックは寧ろ蛇足だろうし、その流通や経済を否定的に捉えることは寂しいことなのだとなんだか全部を一緒くたに考えてしまった。この場合ポップミュージックがきにかかったのは単に好きではない味だったと試しに捉えてみる。
天気の話題も、ポップミュージックもバター醤油の味付けも、やっぱり世の中には必要なのだろう。
そういえば、気がついてみたら世の中は冷たい冬から桜が咲くほどの暖かい気候に変わっていたのだった。
そして、そんな些細な、そして普通のことに気がつけることもこんなところにそれを書こうなどということも、頭の余地があってこそ起きることなのだ。
そうだ、いただいた年賀状もまだ返せてなかった。すみません。