考えてみたら

「きれいな色」

という概念ですら、定義できるようなものではないのだった

あらためて感覚に対する言葉というのはこういうものだった 美術を意識しだしてからの会話で、学校なんてとくにだろうけど 本当に腐る程何遍も何遍も話して考えている内容のくせに、それがなんであるか当然説明できない。

誰かがこれはきれいな色といってそれは違う、わかってないと思ったり、自分から見て、自分だけが持っている直感と誰かが言う「きれいな色」を考えて、直感が正しいものか、目利きが出来ているのか疑って、大量にものを見て、それでも残るものから分析して、或いはその誰かの選定の信頼性を検証して、などと判断していくしかなくて それだけやっていても 擦り合わさるものではないし、今でもそれ自体を疑うから決まった色を使うわけではない。言語ゲームみたいなことをずっとやり続けていたわけだった

かと言って「きれいな色」と喋らなかったらそれだけの検証はできないだろうからまだ喋るのだろうけど

価値を検証する言葉というのはこういうポジションだったとなんだか考えてしまった。

数百字や数千字で説明できるなにごとかがあるとして、果たしてそれはこれだけの面白さがあるのだろうかと手を動かしていないのに書いている

「きれいな色」のコンセプトとはなんなのだろう。