文章が目の前にある感じをもう一度考えてみる

頭の回転が早く会話でアドリブのきく人は凄いなぁと常々思うのだが、そういう人はもしかしたら頭の中に文章が組み上がっているのかもしれない。自分はそうはできない。大抵なにかふられるとフリーズしている。発声することと、記述することは違うことだと思う。

所謂理性のような働きがあるとすると、自分の場合感覚的に捉えると、前に書いたように風景や概念がパルスみたいなもので繋がる、閃きといわれるものに近い。

教科書とかで見たベンゼン環の化学式をウロボロスの夢で閃いたというエピソードなどは感覚的にものすごく理解できる。

そこから文にする作業の感覚を、なんかあれな比喩でチェス云々書いたけど、自分が子供の頃に結構あったパズルの感じがとても近い気がする。

ルービックキューブでもいいのかもしれない。

因みにそういうのも全然得意ではない。

絵の構成を考えることにも近くて、思っている感じを媒体の物理的な制約(シーケンスか平面か)にあわせてつじつまを合わせるやりとりをするのは同じだと思う

それで学校なんかでの言葉でのコンセプトというのに戻ってみるのだけれど、考えてみれば、その方法を否定したら、座禅して悟るくらいしかなくなってしまうわけで、やむを得ないのかと思うのだった。

寺で美術教わるのも違う気がする

ただ、文章での解釈から脱しているものはどうやってもあって、個人的にはそっちの要素が楽しく、だからこそどう捉えたら良いのか考えてしまう。

そんな折、たまたま西田幾多郎についての本に行き当たってなんか妙にしっくりくる気がしたのだった。賢くないので、理解できてないけど少しまた考えてみる。