なにかを作ろうとして、考えを始めるわけだけれど、当然始まりは、なにも出てこない。といったところから始めるしかないわけで、改めて、どうするかな、という虚空に向き合う時間を久しぶりに味わっている。この時間を拒否して向き合うことから単純な作業なんかに逃げてしまうとそういう作品しか作れなくなることもわかっているので向き合う他ない。逃げる奴は好きではない。
じゃあ、リサーチして、ドローイングしてとか(自分でも)簡単に言ってしまうけど、ここをそれだけではないなんらかのアプローチはできないもんだろうか?とか
欲や解決すべき問題、執着している物事、偶然目に留まった何事か、とか。まぁ、それは多分キャンバスみたいなところではない。いや、キャンバスの場合も完全に無くはないけど
でも、作品の構造みたいなところは、作り始めるタイミングで面白さを自覚してしまっているのであれば、結局のところは前例、既成の価値を踏まえて動いている(と思う)ので、ちゃんとその辺りも意識すべきことなのかもしれない。突然変異みたいな幻想は嘘だ
歴史の道筋を見ないふりを決め込んでも、おおよそ無意識にその際に参照しているわけで、そもそもそうでないと読み解かれない、ルールからも外れた状態を作ることになる。それができたらすごいけど、できていたとしても、恐らくそういったなにかについては自身にも価値の判断がないわけで、実感を伴うことは難しい、
だろうと思う。
でも、ここでの時間のやりくりにはもう少し異なる方法論がある気がしてしまう。
どちらから攻めても良いと考えると、価値を形成している構造や形式からのアプローチもあって、
踏まえて、もう一順の往復で構造を崩すとか、例えば
いや、やってるのだけれど、より意図的にとか
足がかりになるフィールドありきなのかもしれない、選択の連続で歪な形になっているようなそれ
あとは、何を話したらいいかわからないというのは案外素直な感覚なのかもしれない