敢えて言うほどのもんでもないようなことかもしれないけど、ものを作ったり考えたりすることに、周囲の人や環境は確実に影響していて、考えなりが、例えば反発するにせよそれも反映されていると思うわけで、個人としての主体だけでなくて、集合体みたいなところでの主体みたいな括り方があるというのは、今だとそんなに変な考えではないように思う。国家とかそういう巨大な空間でもそれはあるのかもしれないけど、感覚しているのはもっと小規模な、日常的に言葉を交わすくらいの空間。だから、というか身近に面白い考えの人がいることはとても高揚することだと思う。これは本当に重要なことだと思う。
同じようなこととして、一個の人格、例えば制作での作者とされる一つの主体だって、別に解体してよくて、分裂したいくつかの瞬間の交わされる会話の集積と、その括り方で主体を語ることもできるだろうと思うわけだったりする。この辺はここ最近の自分が身を置いている環境や仕事が、そういった考えにより動く要因になっていると思っている。
だから、そんなことをいうのであればもう生成AIは主体に組み入れられてるとなるんではないかなとか思う。とはいえそれでできたものから快楽を得ているのは結局人間の個人でしかないから、やっぱり制作のあり方とかに違いが起きるとしたらAIが快楽を得ていた場合とかだったりするとか?それか、より多くの情報を集めるのがAIの目的、つまり快楽なのかもしれないとしたら、そういう意思が反映されているのかとかをAIを他者として想像してみたり。そんなことを言いながらも隣人の考えにしても、なにもわからないのというはなにも変わっていないわけで、まぁわかったら怖いのだけど