トークのメモ。
楽しかった。タイトルは重い、ほんとむちゃくちゃ重いひとつの要素なんだろうなと
異なる要素ぶつけるため、物体との片割れに使われるとかの用途であるなら別にそれが言葉でなくても良いわけだろうけど、
今までの歴史で培われてきた、もう美術どうこうとかよりももっと基本的なところを含めて、見方の入り口と、最終的な締めとかけじめを、結局は言葉に委ねているわけなんだなぁと思う。
一つのなにかにするためのけじめにもなってしまっているので、それを無視して、ものを不明瞭な世界に置いてきぼりにする勇気をどこまで持てるものかというようなこと。
それを無くすという手もちろんあるんだろうけど、
やっぱり考えというのは、いっても言葉で行われるものなんだろうとか(だからこの場所もこうある)
それでも、作品と結びついたそれをほどくこととか、作品一個としての枠をほどくこととかは、(やり出してる気はしてるけど)けっこう気持ちいい感触なのかもと思っている。
ほどかれたいくつかの断片のある集合とか、ある群みたいなところで、それらから作品的なことを判断して良い気がしているし、また、そういうのの中の一つに作家という括りもあるみたいな、そういう世界感。勿論その個人も他の人と滲んでもいくようなことも
(その場合なにを良しとするかとかは知らない、誰かが考えたら良いと思う。)
これは多分所有とかにも関わることなんだろうなとか、
そういえば、前の仕事での発言(ここでは言わない)は、所有とかより、情報共有の快楽のほうが自分のなかで優先されてたってことなんだろうなという自己分析をしてみる。(知財的な話)
ただ、自分の場合、そういった結果が、例えば話し合いの場作りみたいなことで良いとか、そういうようなところまでには、ものや煩悩?から離れてるわけでもない。あとは、その場合直接自身が入りこまない場合の、なんというか2次的な見え方に快楽はない気がするし
また、少し戻って、共有の快楽のが所有より上回る価値観って、資本主義とかが、人の側から壊れることになったりしないのかしらとか思ってみる。所有とか権威とか上への欲望が優先されてなくなっちゃったら、今の世界を動かしている原動力はなくならないのかなとか
まぁ、そんなこといって格好いい作品作りたいし、お金も欲しいですけど。