前のポスト、見れる出れる と書いていて、ら抜き言葉というやつだこれ、と気がつき調べて直していた。(こういうことに無頓着なので、過去のポストでも間違いが起きているかもしれない。)その調べの際関連記事に簡単に目を通してみたのだけれど、最近では言葉によってはら抜きの使用者の方が多数派になっているらしいとのこと。それに加えて、ら抜きにしているほうが伝達において意図(可能尊敬受身)をわかりやすく伝えられる部分もあると書かれている。調べたらすぐ出てくるような内容なので転載はしない。
変えていいんじゃないかなぁと考えてしまう。中学生だったかそのくらいの国語の授業内で、多分そのころのタイムリーな話題だったのだけれど、日本語の乱れについての議論があり、自分は変えて良いというスタンスを取っていたことを思い出した。そもそも今は古語を使ってるわけではないからという理屈。
こういうのってさらに今だとこんなブログなんかでもそうだけれど、ネットの影響から口語が文語に入り込んできているなんてこともあるかもしれない。
また、調べていた際腑に落ちなかったのが、ビジネスなどの場面ではら抜き言葉は不適切だからやめましょうという記事。ビジネスこそ意図を適切に伝達しなきゃダメじゃんと思うのだけれど。あぁ、これ印鑑なんかと同じやつなのではと思うのだった。(現場では印鑑預かったり、なんてこともなかにはあるケースだろうから、むしろ印鑑のほうが良い場面もあるかもしれないので、必ずしも良い喩えかはわからないけど。)
こういうのをプログラミング言語とかを作ってる人が修正や設計し直したらどうなるのだろう、とかやんわりと考えてみる。
そういえば話は戻るれけど 琴線に触れる というフレーズなんかも、逆鱗に触れるの意図で誤用されるケースが増えてるという記事を見た。自分は使うことがしばしばある言葉なので、意味が変わると困るなぁとは思う。調べてみたら元の語源もなかなかに詩情あふれるものであったが、自分には音叉が外界の周波数に共鳴を起こすようなイメージが勝手に想起されてしまい、それがまぁ、キュンと、つまりは琴線に触れるのである。
大事なものは変えられたくないってのも勝手なことなのかもしれないけど。
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関連で引っかかったのだけれど”エモい”の一番近い言葉は、 琴線に触れる と書いてる人がいた。(ツイッター)別に嫌な言葉というわけではないけど、代わりに自分が使うかと言われたら、、ちょっと違う気がする。