ハイパーテキストの信頼性の担保というのはどう解決しようとされている(いた)のか気になった。有機的に繋がった文章というのは頭の中で思考する感覚に近いと思うし、そのそもそもの成り立ちを見たら(ちゃんと勉強はできてないからこれから)とても魅力を感じるようになったのだけど、書いている主体の枠でも、編集されるということでつけられる枠でもなんらかの信頼性の保障がされる本とかとは異なる形式なわけで、それがないとしたら、受け手からの意味の承認みたいなことも必要なのだろうか 俗な感じだけど、シェアやいいねみたいな それかリンク?
書き言葉が話し言葉に戻っただけみたいなことなのか
そういえば、ペソアの本、売っているのは綴じられているから本だけど、もともとそういうものではないというしカードが箱に入っているような編集でもいいわけだろう、けどペソアという括りはないと果たして一つ一つは読まれたのかとか
学校の仕事で編集してた記録集の打ち合わせ、デザイナーからの案(会話のレベルだけど)にそういうスタイルがあった気がする。そこでは時系列を優先しないとわかりづら過ぎるだろうとそちらにはならなかったけど。それと、結果web上のドキュメントでも意味は変わらないのだろうけどせめてpdfとかのまとまり感は必要なのだろうなとなんだか思っていたことなど。
ドゥルーズとガタリの書き方の話とか
ライアンガンダーのドローイング?写真?だったかなのその後で選別している映像。
繋がって考えられそうなこと、それは絵であっても