参照するh145

ラボの加藤さんに会えたので、質問の時間をいただけないかお願いして、オッケーしてもらう。ありがとうございます。

学芸員の目線での設営についてお話を伺ってみたいと思っている。ちょろっと導入だけでもと立ち話。h145ってちょっと高いかもしれないとのこと、h135-h145くらいで、145はヨーロッパ基準かなとのこと。

私が、今まで聞いていたのと少し違う。正確にするために変えようかなと少し思ったのだが、140-145も自分は聞いた方法であるのと、そのくらいの主観をこめることは悪くないように思ったのだ。それにリサも参加してるし。それと、影響してしまう装飾のことを考えてデザイナーの方に高さは伝達されている。まぁこのままで良いか、とこういう気遣いも協働にはちがいない。

気遣い

少なくとも、自分は今までの関わってきたもろもろで140-145の選択をしていて、なんというかこれが自分の使っている言葉みたいな成り立ちと考えるのも良いように思ったのだ。前のポストにある、私の引く線ではないというのはやはりそう思うのだが、それにも経験からの主観は入っているというのはなにか面白い。

こちらから引く輪郭線ほど主観的な線ではないわけだけれど。(少し時間がたって、感覚的に行なっていた質問のロジックがわかってきた。ライブで議論できる人というのはほんとうに凄い)

もう一つ加藤さんとの立ち話での意見、展示参加者の平均の身長とか出してみるとか?

楽しそうと思ったのだが、初めから重視しているのはこちらの仮想の存在としてのぼんやりした鑑賞者の姿、これは絶対この作品で無視はできないと思っている。なので、一般化されたレベルというのがふさわしい。

人のやり取りを作品にすることの話、作品の構造などから逆算して、そういった社会化された制度みたいなことを無作為に選んだ人が作り上げるプロセスみたいなことをドキュメンテーションで撮るなんていうのも、ぽいのかなぁなどと考えてみた。悪くはないのだろうけど、壁に線の引かれたモノ感はやっぱり捨てがたい。既視感もあるし。

やっぱりそこは絵画なのだ。

追記

既視感とか言って、この展覧会の構造がわりとそれでした。。でも、そのものを見せている感じなどこの展覧会の見え方にそういうネガティブな感覚はないです。そもそも企画にも入ってるし。

映像の作品としたら、作為ありきなプロセスな気がしてなんか引っかかったというところか