全体のプレゼンテーションを聞く
他の参加者で案外定型の絵画展示を考えているプランが少ないことに気がつく、もしかしたらそれに対してのh145は一致というより各々の差異を際立たせる参照点になるのかもしれないと考える。
ミーティングから
阿部先生の意見
絵画と同じ壁にあるパターン、他の参加者との関係付けで見えること
大石さんの意見
作品の間に水糸が見える状態はどうか。自分のペアのプランは定型の絵画の高さではないので、これだと意味はなくなるのでは?。
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遠近法をちゃんと調べないといけない。
遠近法としてこの高さがあるというわけでもないだろうけど。
この線は何人かの消失点を結びつける暗喩にもなるのかもしれない。意識を繋げる線、平均とされてしまったレベル。
と、書きながら具体的にこういったことを記す、見せることには疑いがある。
そこでこう考える。実際この文が作者の言葉になるとはいえ、物質として線を置くところに自分が反応して、この文は事後の分析といってもいいので、もう他者としての作品の批評みたいなものと考える。作ることは、ここの文ではなくて、糸を置くところで多分完結している。
絵と文は一致していないから、作家と批評家と、自分は2人いる、だから作品に対しての私のコメントというのは、作られた作品に対しての言葉で、これは仮に他の誰かの批評があるとするならこの作品と私の文との距離と同じようなレベル。私の分析と、誰かの分析は同じ立ち位置ということで良いのかもしれない。
ここには、作品の神秘性を担保したいという意識もあるのかもしれないが、世界の捉え方というのは言語と風景と別だと思うのだ、笑いとか美術の感動とかというのは、そこの変な一致や不一致で起きていると思う。
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マグリットの作品内の言葉はそういう分かれ方ではないものだと思う。
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人工地獄、第5章、モスクワの集団行為についての文章にある、アクションと参加者の解釈の関係が参考になりそう。
こちらの場合しっかり展示しているモノはあるのだけれど、こういった形でドキュメントとして解釈をつけていくことと、それも含めた作品の成立、何人かの解釈が入ることなど。
これは直接関係ないが、自分も解釈をつけていく他者の1人となること。とか これって協働にもつながらないだろうか?
トマソンとか、ああいった在り方もそもそもなにかのモチーフを語るところが軸なのかもしれない。
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批評について、ある部分否定的に捉えているところがあった、作るポジティブな動きに対し、作られたものに対するネガティブな動きと捉えていた部分があった。大きい運動としては必要なものと思いつつ、作家の場合批評のエネルギーが上回った場合、作品を作ることはなくなる。
ただ、この記事に書いていたことなどや、ここ最近に出会っている諸々から、批評というかレビューというか、作品に対してお喋りをする、共有するというのは、単純に楽しいことなのだと思ったのだった。批評と言われるものが堅い世界だろうと、例えば映画を観たあと感想を言い合うことなんかの延長として捉えたら、それはとてもポジティブなものだ。
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追記20171104
打ち合わせかなにかのときに、岸本さんから出ていた対話型鑑賞というフレーズはそういうことなのだろうか?