メモ(漸次編集、訂正)
展覧会情報は決定したら載せて行きます
ペアのやり取りをドキュメントとして展示することが決まっている。手書きのメモもあるがこちらでも並列して書きだしてみる。ネットは不特定に対しての言葉になると思うので、編集作業に丁度良いかと考える。ペアにでも、自分にでもなく第三者に対して書く言葉
展覧会の内容が固まってきた段階で、作品のプランを思いついていた。相手が決まっていない状態なので、展覧会コンセプトから外れるのだろうか?とも思いながら、この展示は基本的にはお互いの既作から展示を考える内容、まぁ相手が見えてから、もし合わなければ作品替えようくらいのスタート
仕事で、中西先生の展覧会に関わることで水糸を使ったこと、作品で水平線を扱っている大森先生がこの企画の責任者としてもいることや、展示されるであろう絵画と関係ついて見えること、始めに聞いた会場のコンセプトにある人の繋がりというイメージとで、なんかピンきたのである、直感は大事。
協働という、展覧会の打ち合わせにあがっいたテーマにも悪くないかもしれない
この辺のリサーチをしっかりやれたらかなり掘り下げることのできるものとも思う。
で、ペアが酒井さんと決まり、作品ファイルを見ながら現場を見学する。美術が表現だとするのならそもそもなのだろうけれど、奇しくもなのか自分と他人との関係が作品の要になっているような作品を出そうと考えているとのこと。このタイミング、私は自分の作品アイデアと現場との関係でテンション上がることがあり先にやりたいことを話してたと思うのでそこは省みながらその後の打ち合わせなどを進めている。15歳以上年齢違うわけで、逆の立場だったらそうそう意見できないだろうと。(周りからも指摘されるくらいなので、展示イメージにハシャギ過ぎ)
まぁ、出だしについては丁寧に捉えなければいけないわけなのだけれど、酒井さんがそもそも出そうとしていたという作品、自分の印象について友人から集めた要素から配置するインスタレーション、かつそれらの台は自身の身体の高さに由来していて、自分と外界との暗喩に糸を使っているというような内容、いろいろと一致し過ぎるのである。
これも酒井さんには伝えているのだけれど、絵画フォーマットの作品との関係でもこのプランは当然意味がでるのでそれも有りなのかもしれないという案、しかし、こちらではあまり話しは進んでいない。
正直、今のプランは決まりすぎているような気がして疑ってかかっている部分があるのである。
酒井さんの作品のイメージなどについて、質問してメモを取っている。個人的な記憶などがモチーフになっているようで、いくつかエピソードを話してくれている。そのメモを展示してもいいですよとは話してくれているのだが、なにか気が咎めできないので、恐らく展覧会でも公開はしない。
嘘、という言葉が話の合間に出ていた
メモの詳細を逐一書いたほうが記録としては適切なのかもしれないのだが、そこについては編集する。
こちらの作品に対してはどう?というような質問。現実と夢の曖昧さに興味とのこと、次話す際はそこをもう少し。
酒井さんのこれまでの作品が個人的なことを内容にしているので、誰に対して作っているか?何処に展示する作品なのか?というのは三回目話した際に質問をしてみた。先の質問についての答えは自分に対してらしい。展示する場所もあまりイメージしていないとのこと。
自分のプランは、誰かに対しての想定、社会化された文法みたいなものそのものを提示しようというプランなのかなと考えているので、話しながらそこは違うのかもねとつい出てしまった言葉「大人ってそういうもんじゃん感」がなにかとても合っている言葉のよう感じてしまう
自分の20代のとき酒井さんみたいなこと考えてたわーと何回か話しの中で口にしていることに気がつく。自分の20代の作品を見てもらう、或いは並べて展示することも?なんてふと思ったのだけど、展示するのはなんというかキザと思うのでやめることにする。見てもらうことはできるかもしれない。
気がついたら、作品は誰かに対して、外に出すものと考えるようになっていたが、果たして本当のところそれが作品のあるべき場所なのだろうか?
ある人との話、作品は表現ではなくても、そこに美があるといったようなこと。理解はできつつそれをなんで俺に話してんのよ?と返した対話。(先に聞いたのはこっちだから意地悪)
振り返り。学校という場所から離れた時期に、自己完結(トートロジーみたいなものは、ある意味他者性があるものに思うので別、となると前の文は間違えてないか。)では何処にも繋がらないということを結局自覚せざるを得なく、外に向いたような記憶。
そういったことの原因が、学校という場所と思っているふしがある為。そうではなく自己完結することは、決して悪いことではないのかもしれない。