そういえばしばらく風景を見ていない、本も読んでいない。意識的に見ようとすれば風景は何処にでもあるわけだが、気がついてみれば昨日の通勤のシーンさえ頭に残っていないのだ、それでは絵にはならない
前にもこんなことを書いた気がする。いつも書いている気がする。繰り返し
考えてみれば、風景くらい見れる時間なり、余裕がなければ絵などなおさら観れるものではないのである、本だって読めないのである
頭に残っている風景を思い出してみる、やはりというか食べ物、調理のシーン、以上。いやそれすら危うい
つまらない日常だ、いやそんなこともないのか?各人の眺める世界というのはそのように僅かばかりチャンネルのあった瞬間のみが記憶されているわけだろう
本当のことを言えばキャンバスの前に立たされるのも目の前に原稿用紙を置かれるのも、テキストエディタの新規ファイルも、なんの準備もなしに壇上に上げられてスピーチをさせられるようなもので、アドリブ感のない自分としては気後れするのだ
もっともそこからいくつかの記憶をコラージュしてなんらかの風景にたどり着ければ、それで体裁は整う。そして、そういう作業は結局のところ時間差があるとはいえ案外ほとんど不可逆なのだ、やってしまったものはやってしまったものとなる
しかし、この周期については、作ろうという意志があるということは繰り返しではないのだろうか?ただ、改めて風景を、写実についてを考えて、意識を外に向けさせるのは必要なことなのかもしれない