ドローイング_猫

物語りの終わり、中断とはどこのことなのだろう

本という単位で括ればそれは最後の頁になるのかもしれないが、例えばその本の感想が別の場所で書かれたりと、なにか語り継ぐような、会話として考えてみたら終わりというのは実際あるのだろうか?  

私たちが会話をやめることがないように物語りは終わることはないと言うこともできるのだろうか

日常の会話を思い返してみたとき、ふいに会話が中断することはままあることだと気がつく。例えば仕事場でたわいもない世間話をしてるところに、急に別のところから仕事の話がきてそれまでの話は中断し、その流れは完全に断たれてしまう。というと大げさかもしれないが、たわいもない世間話とはいえその会話の先は私たちは触れることは永遠にできない。

案外、「そういえば」、「ちょっと話変わるけど」、そんな出だしで中断する流れというのはいろいろな場面にあるものなのかもしれない。

その場面毎に、中断し永遠になった風景が時空にぽつり係留される。

猫は、ワカメにはりついたフジツボを指差し、自分と同じ生き方だと言っている。

…嘘をつけ…まったく違う生き方じゃないか。それにそもそもワカメにフジツボなんか着くのか?まぁこれは、文章はそもそも嘘だから良いのかもしれない、私はフジツボを無視して、物語りが中断するのか、続けていくのかを考えてみる、もしかするとこいつが、なにを考えているのか波打際でワカメを拾ったところで、その前の流れは既に終わっているのかもしれない。

あー、フジツボ食べちゃった!おまえ…

…少しはこいつと先の流れを考えるべきなのかもしれない、いや、方向性をまとめるなんて柄であるならそもそもこうはならない