随筆

職場に海外のアーティストが来てくれて、作品について話してもらう機会があり仕事がてら楽しく拝聴する。1人が架空の歴史を捏造するような内容の作家ということで気になって質問などしてみた。自分の諸々にも関係あると思ことや、やっぱり自分が気にしないとと思う諸々の作家とも関わる問題だろうし、少し前にそのような傾向の作品が増えているというような記事を見た覚えがあったのも理由。

彼の作品は、出身国の歴史とも関係してるようだったけど(このへんでポリティカルな価値構造も伺える)、わからないよう彼が捏造した歴史や諸々を美術としてプレゼンテーションする?という内容のようで(ちゃんと聞き取れてない)、それがディストピア的政治で実際に行われるような歴史の捏造とそれほど変わらないあり方だというのが作品のキモのようだった。そこで、とりあえず作品のプレゼンテーションの価値を捏造のリアリティかそのフィクションとしての面白さかならどちらに置いてるの?と聞いてみたのだけど、あり方がそういう政治と似ているということこそに意味を持っていると言ってくれたようだった。(短い時間での質問だったので誤読かもしれない)

そこで、では似ているのならアートと政治の線引きはどこに捉えんの?と投げかけてみたらそこが重要なことと捉えているようだったけどふわっとした答えだった気がする。恐らく、やっぱり線引きができないというのを示唆することが作品なのだろうと思う

ここまで先入感でライアンガンダーみたいな見せ方(追記、あまりいい例ではなかった)なのか、ポリティカルな美術かのどちらなの?という二者択一で捉えてしまって質問していたのだけど、時間たって落ち着いて考えると現実にある歴史の虚構性を、自分の作ったなにかを並置することで結果炙り出す、というかお互いを示唆し合うような構造を作るということになるのだろうか、先ほど僕が先入感もって予測してた見せ方とちょっと違うと感じる。見れてないもんだなぁと思ってしまった。まぁただそうなれば虚構のリアリティを求めてそれらの線引きはないってのが提示できれば、彼にとって正確なのかなあとか考える

謙遜するように、こういう構造のものは既にあるけどと話してくれていたけど、例えばそうなると作品の価値はどこに置かれるべきなのかと考えてしまう、修辞的な鮮度ではないということになるわけだから、社会的な意味や現実的な実現という価値だけになるということ?

ちょっと話は変わるけど例えばこれがいわゆるポリティカルな社会的目的を伴った作品だったりするなら政治とアートあわせた価値判断をされ得るべきなんでないの?とか思う。

芸術が芸術を定義するみたいな、そういうのが発展的と捉えられた考え方はある時代以降、結果的に見ると他のジャンル(多分それまではアートと呼ばれなかった価値体系)に横断していって内側から価値を再定義するバブルみたいな価値の作り方になっているのでは?と自分の場合考えるようになってきたところがあった。(勿論、それでも弾けない価値を伴っている素晴らしいものは多いと思うし、そういうゲーム的な前提の上での価値だって、それは絶対あるものだと思う、)

だからポリティカルなものを評価するなら、ライオンハート云々やってた某総理における広告代理店の仕事だってアートの文脈で読み込めないの?というようなこと。(読み込んでいいと思う。ここで問いかけで終わらすのが政治とは違うという考えもあるように感じる)

或いはまた違った方向への横断として、例えば笑いを用いた作品なんかであるなら、芸術の高尚さからの落差という価値に頼らず、娯楽としての笑いからの価値判断でも意味を持たせられないと前提の枠組みが広がってしまった場合弾けてしまうバブルのような価値なんではないか?なんても思うし、

そして、また違う方向で、コンセプチュアルな作品なんかも、視座の階層を変え、構造や脚本的な部分で捉えたらそれは言語の話と言えてしまう作品なんかはあると思うわけで、それは文学に回収されると言うこともできるものだと思う、、とそんなことを考えていた結果、美術館なりの認定した価値の枠組みの内側からこれが新しいでしょ?とかそういうスタンスではなく、いろんなジャンルの価値判断を踏まえて面白さ(漠然としてずるいと思うけど、自分は修辞的な鮮度なんだと思う)を作る側は考えて、価値体系側ももっと他の体系と混ざり合いながら判断していくなんてのができるのならそれはとても自然な文化の作られ方なのではないかなぁと思う。

だからMOMAなんかがさらっとゲームとか収蔵することなんかがとても素敵なことだなぁと見えてしまう

自分の場合、作ったものが結果例えば美術と捉えられても文章として捉えられても或いは他のなにかであれそれはどっちでもいいことなんだよなぁとある時から思ったのだ。そして多分第一に修辞的な鮮度を遊ぶことを楽しんでいるからメッセージの伝達効率に関わる例えば政治に近いような目的については自分の作るものでは主にはならなく、そういうものが美術じゃないと世の中が言うのであれば、自分が作ってしまったものが美術じゃないものとして捉えられることは厭わないとなる。

まぁとは言っても新しいなにかは作りたいわけで芸術は芸術を定義する云々もそこで使われている芸術という概念のカテゴリーを、作る人サイドが、他のジャンルも含めた上での範囲、価値として捉える前提では機能はしてるなんても言えるのかもしれない。

オープンスタジオ見にいこうと思う

考えを纏めるための覚書として。