20251025-2

ここ数日いろいろ話聞いたりする機会があって頭が動かされた。

良いこと。

お声かけいただき、国際展とかのレビュー的お話をアーカスに聴きに行く。本当はそのへんの展示を見に行かないとなんだけど、行けていない、良くないことでもあり、実は苦手なことでもある。

(業務などで関わったりする場合もあるから完全に外目線だけというわけでもない。)

忙しさにかまけていけてないことが一つ、業務として関わるパターンがどうしてもあるので、辛いこととして頭に刷り込まれていることが一つ、あとはあれだけ大量の作品を、限られた時間の中で消化していくように見ることにしんどくなってきていることが一つ、というような苦手意識。

改めてレビューを聴講していて思ってしまった。社会的なテーマを扱う作品が多い昨今の流れと、そういった時間感覚で鑑賞する状況からか、作品のサマリーみたいなところ、構造的なところで次々理解していくような見方が結果として起こるところから、なんというか、展覧会が比喩を噛ませたジャーナリズムのように感じてしまった。

それに加えて、これは自らが置かれている学校的な状況とかも含めた視座として、商業的ではないスタンス、例えばインスタレーションのような作品を行うキャラクターが、キャリアアップみたいな手続きとしてレジデンスという制度を利用するケースが多く、そうでなければコマーシャルギャラリーへの道筋という2つのルートという二極化の話。

レジデンス、地域問題→国際展というような流れが、それらが露わにするもろもろが、メジャー?の資本主義みたいなことに対するアンチではあったりする場合は多い気がするけど、その一連についてもなんか作られたシステムのようなものを感じてしまい、、

商業と社会的スタンスの2つのシステム以外のルートがなくなっているような感じがするのは、なんか良いことではないような、、そんな違和感を感じたのだった。

そういえばオルタナティブスペースって言われていたものはどうなっているのだろうとか、ここへきてお金払えばほぼ外からの力学が働かない、貸しギャラリーとかってどうなんだろうとか、ふと考えてしまった。

実際、先に書いていた2つのルートからあぶれてしまうようなタイプの作品が好きだったりするからそんなことを余計考えてしまっているのかもしれない。そう言っていいかはわからないが、丁度にそういったタイプ(と自分が解釈した)素敵なものを見たというのもこういう考えに影響している、

かもしれない。