コンセプトコンセプトうるせーなあと思ってた学生時代の反動が変な形で出てるという反省。逆張りの態度で、時代の動きやムードができるなんてことは割と起きているのかもしれないとか、ふと思ってしまった。
少し脚色。
大学生にもなって不良的な態度とるほど幼くはなかったけど、先ずコンセプトを言えというやり取りが通常営業だったことからの違和感の育みの結果、こう育ってしまった。
物質なりが先に有る必然性を不意にするという言い分は、その反動のせいかこれまで散々書き散らかしている。その考え自体は動いてない。
っても、改めて今にして冷静に考えて、このやりとりの場面は、そういえば展示じゃなくて学校だったわけだ。そりゃあそうなると思う。言語を使わずに学校やれるのであればそんな可能性も考えられるのかもしれないが、、ないよ、言語を使うしかない。という話。意味ないもん。単なるシェアスタジオになってしまう。
本当は作っているものを自身で言語的にも擦り合わせが出来ていて、それを前提にやり取りすることが、学術的な?場の条件だったりする?
死ぬまで出来ない人も結構いるのではないかと思う。とても好きな作家でもそう感じるものがある。
そういうわけで当人が出来ていないことは結局あるだろうし、出来ていなくてもそれについての言葉を他者が語って他者が理解することでの意味があるから、無意味ではないということ。自身の理解ができていなくて他者の理解ができているケースもあること。やり取りの意味はある。少しずれているのであれば、擦り合わせできないまでも異なる視点を取り入れる機会になる。出来ていなくて成立することについて理解できる場にもなる。そういったもろもろついてのやり取り。
そうだ、そもそも、作品が他者である前提としてそれらを考えれば当然の振る舞いである。
そんなことを踏まえた上で、さらに言語外の価値について、別階層の言葉ででもやり取りできればさらにとかいうところなのかもしれない。
あとは誰に対してか、なんでやっているか、やっているものはなんなのか、どう価値が発生してるのか、とかそういうもっとコアなところの整理のためとか