20250829

表現?の形式に対しての相性はそういうところでも出てくるのかと思う。短編の小説なんかは改めていろいろ考えられるのかもしれないとか。

カルヴィーノとか稲垣足穂とか、勿論ボルヘスとか一時期は好きで読んでいた。(そういえば、これは随筆の話だけど、一時期青空で寺田寅彦の随筆にはまって結構読んでいたのだけれど、そのとき本業の研究よく知らないでいたが、今の仕事に関するところがあるらしく関係の先生から教えていただけた。不思議な結びつきだと思う。)

この辺の文章への温度感は、その時の通勤の状況とか、仕事への頭のリソース配分とかが影響している。(お金なくて時間はあるときには、単価あたりの情報量が一番濃いエンタメと思ってました。)

また、エッセイはエッセイであるゆえのモノローグであることが良さと思えて来てなんだか見え方が少し変わった気がする。これはこれでいいのかもしれない。

或いは、エッセイでも、例えばこの場所に人格の練習台としてみたいにイマジナリーフレンドみたいななにものを登場させていくとか、、そういう方向も悪くはない。まぁそれっぽいのを以前にやってはいる。

そういえば、そもそもの表現の形式として、絵を選ぶ時点で、パーソナリティの距離感とか、身の出し方など、消極的だからこそなパターンは多いであろうと。でなければ、例えば、もっと直な、役者や笑い、音楽なんかをやっているだろうと思うわけである。アー写なんてあり方なんかでもそうだけど、まぁ作品と自分の顔が接続される必要を全く感じないので、あとシンプルに嫌なので、出来るのであれば出したくはない。なのだけれど、このような文の見せ方に関しては、結びつくことがポジティブに感じているところがある。

だいたいにおいて、作家の文章なんて自身の考えの正当化と言い訳がほとんどなので(偏見です)、これも多分そうなのだろうけど、、ということを考えていくと、作品に文章を並置することを以前ネガティブな書き方してたけど、超最悪なやつを寧ろ自身が体現してるのかもしれない、、でもこれなら良い気がしているのはなんでなんだろう、やはり距離が自分にしっくりきてるのだろうか。