20250325

作品を言語的に説明できないところに価値の中心を据えるとしたら、ある方面に進みすぎるとナンセンスとか不思議ちゃんとか(いまの言い回しわからない、)の方向になってきて、完全にそっちに振り切ると今度は何も考えてない人と読まれる可能性が出てしまうことになり、これはこれで避けたくはなってくる。つまり弱い

なんというか俗物なんだと思う。なので結局わかりやすいのだと思っている。

そこら辺踏まえつつ自分がやる判断を書いてみると、意味、場所、現象、色、形態、言葉、音、階層、文脈、歴史、人、空間、など、できたら未知のものも含め(カテゴリーは混ぜこぜ)から幾つかの要素が有機的にリンクして、出来れば幾つかのなにかを(他の誰かも含め)引き出せる可能性のある状態を見出すこと、なのかもしれない。

個人的な、見る側視点で言えば、言語的なモデル(=解説、とか)が、モノなりにダイレクトに反映されてるような、比喩の関係が並列した直接的な構造とか(言葉とパラレルになってる感じ?)、その他の要素なりの可能性の余地が残されていない演出なんかは、簡単に感じつまらなく感じてしまう。あんまりクリヤーだと嫌になるし、その構造を外してくるものに惹かれてしまう。(そういうところだけで見てるわけではないけど)

でも、こうやって書いてみるとつくりはけっこう簡単なことなんだと思う。いろいろなジャンルの修辞とそう変わらないだろうと思う。

とはいいつつ、前にも書いた気がするけど、そんななかでの、綺麗な色という価値観一つとっても、けっこうな時間使ってこれは良いこれはダメと、下手したら正しくないかもしれない価値判断もあてにしながら、自身の中の価値を構築していくようなところでしか探せないものだと思っており(修練以前に常に意識のある、自然体で出来てる人もいるとは思うけど)、自分は全然未熟なものであり、これが享受する側にも判断に同じものが必要になること考えれば、、そもそも楽しむこと自体、超難しいものなんだよなぁと思ってしまう。

だからこそ面白いものなのだろうけど。(古代の歌のやりとりなどはこんな感じだったのかもとかふと思ってしまった。そういう意味でいえば、本当に充実した環境に身を置けていることに感謝している。)

楽しめるものを持ってるものがより楽しめて、そこに向かいたいという原動力が総体の運動を支えてるって、なんか、、これ、オルカン?知識ないので良く理解してないけど、似たことだったりしないのかしら、資本とか

あとはこれ、それぞれが蓄積できるけど、交換することはできず、そして貨幣に換金できない価値なのではないかなとか

前に職場のお喋りで出ていた諸々、今後必ず出てくるのだろうけど、そんな展開どうなるんだろうなぁ面白いだろうなぁとか思う。