最近やたら目について気になってしまい、作品にダイレクトな解説を並べることについての煩悶と言い訳の覚え書き。言葉を添えることはあるとしつつもその扱いと加減について
最近言わない?コンセプトとかいう扱い。作品に併置される解説、まずはそこから喋るプレゼンテーションとか、
なんというか芸人の人がこのネタの面白さはこれこれでと言い訳を先にしているような姿が脳裏にチラついてしまう。
醒める。
スッキリしていないと思う、二重に内容を示さず、元の作品のみで済むのであればそれで良い筈ではと思う。せめて後出しに
また、逆方面に振り切った、作品のみの自立性を重んじた、完全に潔癖なスタンスについても違和感を感じる。結局、例えばそれが据えられる建築なり、外から語られた解説なり、そう言った関係が、結局価値に影響を及ぼしている。媒体は結果複合的になるものと思う。
タイトルは良いと思う。完全に定着しちゃっている歴史的な形式、575みたいな形式、フレームワーク。でも、勿論それがなくても良いものとも思う。
初期のコンセプチュアルアートでの言葉は、その関係自体を示す1階層上の視点が含まれてるように感じる。
詩も良いと思う。詩の言葉は言葉自体が物のように提示されてるものと思う、解説とは違う。
時間が解決できるのであれば、解説を併置することの必然性も、もしかしたらいずれか出てくるのかもしれない。(自分が鈍感なだけで、既にそういうものになってしまっている可能性はある。)
直接的な解説をすることは、視覚情報としての作品の必然性をなくして(減らして)しまうと思うので、やはり興醒める。ということで、その構造についてのメタな解説にしておけば良いのかもしれない、それが良いものかはまだわからない。
演出だとは思う。例えば自分がこの場を使い作品との距離をコントロールし、階層をコントロールして、作者というカテゴリーの範囲に対しての言葉として置くことについての判断とか。
距離は重要だと思う。距離のコントロールはそれぞれの要素が、その他の要素にどこまで影響を及ぼすか、どう認識されるか、コントロールするもの。文章でも、演出でも、人の関係でも、繋がりとそうでないことについての示し合わせができる本当に大切なパラメーター。なんであれ、修練すべき判断の技術。
言葉が伝達や思索において、とても重要な媒体であることは認識しているけど、思索の、特に初動のインスピレーションなりはイメージの連鎖がかなり重要な役割だと思う、思っていた。これは少し前に指摘されて初めてわかったけど、イメージに強く比重が置かれた思考をするのは絵画の人の特徴らしい。(狭い世界内の立ち話なので、とりあえず一般化はできないと思う話)
ちゃんと記述する、伝達することについて、解説の態度は、必要と思う。例えばアカデミックな場とか、積み上げる上で。けれどそれは展示の場でのことではないように思う。
少なくとも解説をしない状態での作品が可能性として含んでいる振幅についての理解は無しにできないものと思う。それを楽しんでいる人であれば尚更のこと。詩の言葉の物感と同じ意味として。
こういった話、そういえば所属していた場所なりではたいして話せなかった、とか思う。けっこう大切な態度に関するトピックだと思うのだけれど