写真に意識が向いているからなのか、帰路で街灯とアパートのシルエットがつくるなんでもない風景を眺めながら、写真がその構造から価値を引き出されていった過程とか、伝達の言葉に対しての詩のあり方とかを頭の中で関係付けて、その修辞の発展について思いを巡らせていた。
写真史とか、かつて本当の基礎の基礎くらいを学校なんかでさわった程度なので、ちゃんと歴史を踏まえて語れる知識はない。ただ、本当のはじめはシンプルに記録するものだったのだろうとか
なんらかの媒体やそれ自体に含まれている目的から外れる揺らぎを、そこから見出された価値が、時間の取捨選択を経て、修辞として、表現として昇華されていくものなのかもとか
以前お世話になったある方は、詩は全ての芸術の基礎になると言っていた。媒体として言語が基礎にあるべきかについて、自分は簡単に同調はできないけど、視覚的な詩(例えばブロータースとかをそう言えたら、自分の解釈)なども含めて言うのであればそれも一つなのかもしれない。(いや、けっこう言語か、)
ちょい前友達との飲みの際、酒の肴にしたTikTokが作品になるならない問題。少し前に気になっていたエクセル教室の作りだす価値とか、そういった媒体から展開される未知の可能性とかを頭の中で引き合いに出しながら考えてしまった。
そういえば、花を生けることや、お茶を飲むことから見出されてきた体系も、もしかしたらそんなやり取りを経て確立されてきたのかもしれない。
考えてみると、本当に日常の普通の生活の様々な切り口から、その揺らぎの引き起こす可能性から、なんらかの価値を見出すことはできるものなのかもしれない。コーヒーを淹れる(藤岡先生)。ゴミを出す(既に詩情)。歯をみがく(音楽)。うんこをする(ビザールな)。そういった所作の洗練、修辞の揺らぎに価値は見出していけるのかもしれない、
3回回って一服するとか
そうしたら少しだけ1日は豊かになるのかもしれない。
鬱