スピリチュアルではないつもり。
たまたま直感的になにごとかを判断するようなことに意識が向くタイミングがあり、そういったものごとついて考えが動いていた。特になにかを作るときにされる様々な判断などで、直感というものに従うことは良くあって、わりと信用すべきものと思っている。
おそらくだけれど、直感は、ロジックからの世界の捉え方では捕捉しきれていない微細で様々なチャンネルを瞬間的に精緻に合わせ感覚する、だけれど、そのままだとそれを定位することは難しい。
スパークやフラッシュのように瞬間に明滅する感覚をロジックに接続、翻訳しようとすること、その仔細を捕縛、焼き付けるには、できる限り感覚に素直になるための技術の鍛錬が必要なのだと思う。
とか言いながら、どれだけ感覚に素直になろうとしても、あのときあのように思っていたのに、ああすれば良かったのに、という「失敗」という意識をよぎったはずの僅かな記憶についての後悔はそれでも起こるのである。この後悔というものがそもそもロジック以前の直感を示しているのだろうかという
ふと思ったのだけれど、絵画の、デッサンとか呼ばれてきたものが修練しようとしているのは、モノトーンで見ているものの陰影を忠実に写実するなんて表面的なことではなく、
なんなら視覚だけに留まらない、そういった感覚をいかにして取り逃がすことなく捕縛していくかについての修練だったのではないかとか思ってみたりして