ドローイング_猫

猫との出会いの合間に、私は毎日の仕事に戻る、そしてそのルーチンの中でそれが、仕事そのものが持っている楽しさという在り方にふと気がついてしまう、ルーチンというニュアンスと正反対の価値、

なにかを良くしていくということに快楽を感じるのは果たしてなんなのだろう、分業が複雑になりすぎたからなのかなんなのかはわからないが、メシを食う為というような本能的な生命維持の為の直接的な動機からは断裂したモチベーションであることに間違いない。

例えば企画を考えていくなかでいろいろな要素が完璧に結びついて意味が構築されていく喜び、或いは道具、資料へのアクセスが完璧に整う気持ち良さ、予定した段取り通りに完璧にことを運ばせられた達成感、これらは仕事という言葉やルーチンという言葉のもつある種ネガティヴな側面とは異なる快楽を持っている、この快楽の本質は完全に自己にのみに反映される満足感の充足、これはどちらかといえばむしろ遊びに符合する

そして、そこには恐らく美という抽象性が介在している

恐らくだからシュミレーションゲームなどというルーチンを楽しむ人がいる

全く縁などないし、本当に知らない世界への勝手な想像でしかないのだが、数学者の快楽の充足と近しいことなのではないのか?となにか思う、ピースが適切な場所に完璧に収まる美しさ

意識に猫が触媒となりなんらかの変化が起こっている、今まで文章化したものが猫の視野を含めを再構築した意識という意味で

私は勘違いをしていたように思う、猫は真っ当な経済活動や生きるための必要条件と反目する存在ではない、それらの隙間をするすると優雅に縫い歩きながら彼らはマーキングしている、連中は私なんていうちっぽけな意識の認識よりも広大に軽快に世界を遊んでいる

全ての時間空間に猫の影がチラつき出す