20260526

テック企業で大規模な管理職のリストラとAIデータセンターへの投資があった話とか、社員のマウス軌道のスキャンからのai移行の話とか、小説の賞でたくさんのaiでの作品の応募があった話とか、カリフォルニア州のベーシックインカムの話とか、

アートなんかについては、作品を享受する側は人である以上なにもそんなにと悠長に思っていたけど、そんなことないような気がしてしまった。

作るという欲動はスポーツや、直近だと将棋みたいな態度になっていったりするんだろうかとか、

より面白いものが自動ででてくるとして、なんというか凡庸な言い回しだけど、家畜化のような態度になっていっても、それで満足できるのだろうかとか、

とはいえ、普通に考えると、受容側、消費者みたいなあり方で考えたら、自分より面白い人が作るエンタメや遊びの構造やサービスや商品をそのままに享受するという態度なのであれば、同じことだろうと思うので、それほど大きな変化はもしかしたらないのかもとか。

例えば自分が好きでやっている釣りなんかにしても、釣り方も、良いと言われるルアーも、取り巻くイメージも、据えられた上で自分はその範囲のなかでの発見なりを楽しんでいるわけである。でも、それでも新しい釣り自体を提案する人というのはそんな中でも事実いるわけだったりする。

まぁ、それに発信と受容とのお互いの確認の後、良いというものはできていくわけだと思う。

(システム化されたものはあれど間違いなく必要なものだろうことから)手をつかって農業に勤しむなんていうのも楽しいかもしれない、けど

作る側、自身の頭で考え導き出す快楽は、アーティストの快楽はどうなっていくのだろうとか

この世界の動きが逆行することはないだろうから、そこでどういう態度を取っていくのだろうというようなところ、

aiがウェブとかの言説の集合から吐き出される回答なんだとしたら人との関係なしに自律した運動にはならないものなのだろうけど。

そうなると併走する、なんというかアシスト自転車みたいなことと捉えれば良いのだろうか、とか