世界の意味の総量を増やすこと とか
考えてみれば、絵は、見る時に、記号的な意味の解釈(伝達)で終わらせられるような性質の媒体ではない。
対峙させられる時間や空間やそういったもろもろの設定が、そうではない見方を強制されている媒体だと思う。それ以外を見るように、制度からも結果仕向けられている。
納屋のある秋の農村風景、はい終わりというわけにはなれない。
世界を認識する際、日常生活であればコンマ数秒で終わるようなシーン、質量、例えばいっときの、絵であれば手でもてるような大きさの範囲の風景から、へたしたら数時間にわたるくらい、それだけのボリューム、情報を読み出すことを仕向けられる。
一つの筆の動き、その下の層の色の配置などにいたるまでありとあらゆることを解像することを促されたりもする。
絵、または絵という「見方」は、無限に文節できていく可能性を持っている のだと思う。
これだけでも他のジャンルのあり方とのけっこうな違いなのかもとか