そもそもで、作り手が自身の制作を言語的な意味で理解できているとするものなのかとか、その喋りと一致して作品が読まれるべきものなのかとか
例えば書け書け言われて、仕方なく頑張って、頭良いふう頭よくない感じの文章書いているケースなど
外からみると、的外れな言葉に対して異なる作品の魅力が見えたりもして、むしろそういうほうが純粋さが際立って見えすらしたり。
ファイン
例えば他人から見ての自分をオーバーラップ、情け無い愛想笑いをしている客体が浮かんでくる。20代くらいのときであれば、恥ずかしさでどうしようもない気分になりそうなもんだけど、今更そんな青臭さもなく、まぁ、、いいかのスタンス。
業務のメールですら手を離れた瞬間に、異なる読まれ方をする齟齬が起こるなんてことは誰もが経験していること。そこで元の意思ではなく、メール自体を見るようなこととして
アウトサイダー、発掘された美術とか
作品は作者の外側にあるもの、あるべきものなのだと思う、多少の無責任さが必要なのだと思う。
だからこその風景という言い回し。
投げやり。投擲されて地面に刺さったやつ。水底に刺さるイカ。イカの精子。