時間の感覚について。
イデオロギーのモニュメントみたいななにやら、バカでかいくす玉的ななにやら、そんな大量の諸々も(比喩。批判ではない)それはそれであるのだろうけど、
槐多とか、藤牧義夫とか、ラウルデカイザーとか、パレルモとか、ペソアとか、福田平八郎とか、放哉とか、足穂とか、なんかそういう
(解釈違いは棚に上げるし、しばらくそんなことできてすらいないけど)
例えばそういうの一つを、例えば座って、例えば静かに時間かけて眺めるとか読むとか咀嚼するようなことはどうあろうとなくなるようなものではないと思うのだけど。(そういえば、数年前、当時のボスが(時代に対し)だからこそただ見る、というようなことを言っていた。前後の文脈も解釈も異なるかもしれないけど)
それにそうでもしないと、解釈など言える話じゃない。なんなら胃液と混ぜ合わせたそれらを何回も反芻して良い。蛇や鳥類ではなく偶蹄目の態度。 胃袋のサイズなんて誰彼でそう変わるもんではないのだから
そんなことへの憂鬱や、けしかけていただいていることへの感謝や、その他の星回りとか、しかるべきタイミングなのかもしれない

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