20211028

脳内で文章を考えていたとき、ファイアウォールのことを自然に防波堤と日本語で扱おうとしていた。どうやっても自分たちには震災の記憶があるわけで、その記憶がそういう訳し方をしてしまうのかもしれないけれど、震災がなかったとしても自分はそのように使っている気がする。普通の生活のなかでの災害のリアリティー的にそこにそう差があるわけではないように思うけれど、日本の土地柄というか、場所としての文脈がこういう比喩の選び方に出てしまうものなのかもしれない。

実家の地域は水害が良く起こる地域で、近年にも酷い洪水が起きている。また、自分が釣りをやっていることも、自分の言葉の選択にもしかしたら影響しているかもしれない。

ものを作ることについて、そういうことが意図的にパーソナリティを演出することに繋がるとしたら、そういうのはどうにも好きになれなくて、気持ち悪いと思ってしまうことだけれど。

そういえば前職の女子美で、所属研究室が、震災の被災地との関わりがあり、訪問に同行した。海にも視察に訪れたのだが、異様に透明な海水の印象を覚えたことをふと思い出した。何故か今でもその透明さが脳に焼き付いている。