20211011

分厚い哲学書を読んで人の名前だけ覚える人もいれば、散歩の風景から真理を見いだせる人もいるだろうと、読みかたや受容の方に意識的であるべきといったふうに考えて、時間数などの量みたいなことではなく、受け取れている量の方を大事なことと思うこと。

態度を意識的に、例えば山登りに自分を向かわせれば、そこでやるべきことは風景を見ることに絞られるのだろうから、そういう気の持ち方には意味があるけど、例えば職場への行き帰りにでも風景はあることを考える。

知識が足りないという感覚を持つから勉強しないとなぁとなる前回の内容。ある程度の知識やら教養やら雑学が必要なのは間違いない。ただ、どうなんだろう。文化が、参照と編集で、連なっていくものであるっていう認識はあるけれど、その参照元は文献だけではないわけで。体験、サンプリング(ネタからではない)、写生、がなければそもそも時代の感覚も例えば新しい思想みたいなものにしたってできるわけはないのではと。

クラブミュージックみたいに、既に確立している概念(本とか)から参照とミックスすることだけで出来ることも、勿論あるのだろうけど。

グラデーションなのだろうけど、例えば作家のキュレーターの批評家の、或いは小説家の俳人の、それぞれの意識するソースの配分比は少し違うものかもしれない。勿論、キュレーター的な作家とかそんな例はいくらでもあるから、それぞれの平均ではこれこれというくらいにしか言えないこととしても。

そんななかで、どうありたいのかということ。格好つけるようなことに惑わされないようにして

定期まとめ