20211010

勉強できてないなぁと思ってしまった。博識な人と接したり、しばらくしっかり本読んでないなぁと思うなど、理由はいくつかある。ただ、個人のソースについてのリソースと考えると、誰彼と比較したところで総量では、そう違いがあるわけではないのかもしれない。まぁショートスリーパーとかだと増えるということになるだろうけど。

本読んでない代わりに、その時間なんらかの経験をしているわけだから、そういう意味で言えば、勉強できてないなぁというのは嘘で、例えば本だけ読んでいるとしたら、何でも良いのだけど、山登りをしていないかもしれないし、料理をしていないかもしれない。或いは仕事をしてないかもしれない。

予算配分みたいに、時間のデザインと考えて、勉強するしないということではなくて例えば本にリソースをもう少し割くというようなこととして考えたほうが良いような気がする。つまり代わりに削られる場所が出てくる。

興味の対象に合わせて、自分のソースをデザインしていく。学校で仕事してるからこんなこと思うのだろうけど、履修計画みたいなことになるのかもしれない。そういう言い方をすると、なんだか急にくすんで見えるような気がしてしまうのは何故だろう。

前に学校の先生されてる方と飲んでて、何故かそのとき、話の流れは忘れたけれど、教育ってのは情報を制限することだと思うと自分が言ってしまったことがある。編集とかキュレーションとかそういう感覚で言った覚えがある。前のポストにも繋げて考えられること。実際仕事や学校なんかでは、要約がなければただただ効率が悪いことになってしまう。

講義のように、直接の経験ではなく要約されてディテールを削られたものの場合(少し強引に言ってる。そうじゃないのも沢山あるので。)は、効率的だけど、元の彩度とは違うものになってしまう、2次媒体のように。

まぁ、このくすんだ感覚をもってしまったのは、おおむね全部の配分がそういうものになった場合のことだから、デザインとかいっていたものは、そういう意味では履修という言葉から感じる印象とは違うものであるとは思う。

ただ、こういうことでなにかを作ろうというのはなんか結局うまくいかないような気がしてきてしまった。まぁもう少しだけは自覚的にソースを組んでみても良いかもしれないけれど。