たまたま現地で出会したその頃仕事でお世話になっていた学芸員の方が、ベンチャーズ来たからみんなで観にいこーぜみたいなことっすよね とか話されてたが、確かにそういう感じだったかもしれない。自分もミーハー心で芸大のブリオーの講義、見に行ったくちなのだけれど、確かその時だったと思うのだけれど、キュレーションについてdjに例えられていた。(自分のこういう記憶はけっこういい加減なので、言ってたのは実は違う人だったかもしれない。)

最近車でテクノの回転率がたまたま高いことやら、このサイト内での要素の関係(リンク)の紡ぎかたを意識的に考え出していることやら、その他のいろいろが繋がってのことなのだけれど、作品やその他の要素の連関のミックスということであれば、それこそテッドネルソンの思想よろしく、ウェブの空間の方が、美術館のような時空間が制限されたものより、ずっと有機的で多次元的な意味の紡ぎができるのではないかと少し思う。そんなことは既に沢山考えられているのは当然のことだろうとして、それに勿論、流石に作品置くだけでそういうことを考えているなんてわけではないわけで、やっぱりあくまで妄想。

でも、ウェブなんだよなぁと思ってはしまう。実際、解像度が上がろうが、VRなんかがあろうが、まだ少しの間は再現が、直接の五感を越えてくることは難しそうな気はする、、と

間違えた。

その考え方がズレていた。元は絵も再現なわけで、出力自体になんらかの魅力ができればそこに価値は出るのかもしれない。テクノのライブや、IMAX、スピーカーマニアのようなことと考えてみる。(テクノのライブは奏者のインタラクティブ性みたいなこともあると思うけど)

でも、そうなると最終的な出力の希少性こそが価値ということになってしまうんじゃないの、、?これ。

であるならともう真逆の、文章というのはそもそもだろうけど、例えば論理哲学論考とか、不安の書とかそういうものを考えてみる。出力云々ではないもの、別ルートの極

とんでもなく畏れ多い例。そんな超高級なとんでもない脳みそは携えられるわけもないが、声真似をする烏くらいの脳みそを携えてウェブ上にこんがらがった意味の編み込まれた想像上の烏の巣を作るような、或いは幻の書庫を組み立てでもするようにと、その意味を考えてみるのはさすがに格好つけすぎか。或いはこれは展示をしっかりできていないことの言い訳なのか。

一羽の鈍色の烏になりかわり、些細な枝葉や光物、言葉のような種々雑雑を其処彼処から収集し歪な巣を拵えられるとしたら、そこには何を招き入れられ、何を育めるのだろうか。