20210908

文章書くのが下手なのと、ネットなら後からなんとかなるかという甘えで、適当に勢いで書いたものをアップしてしまうことがままある。本当はそんな無責任ではいけないのだろうけど、実際後から見返して過去の文をちょいちょい修正していたりする。そういうわけで、あげてから少し時間が経ってからのほうが文章は落ち着いている。そしてなのだが、この後からの修正の作業がめちゃくちゃ気持ちいい。また困ったことに、アップする前だとその気持ちよさはどうも味わえない、というか半減でもしているような薄味具合だったりする。もしかしたらこれは変態的な質感なのかもしれない。

変態などと書くとこう捉えられそうなのだが、下手な文章を誰かに見られていることへの羞恥心がたまらないとかそういうわけではない。それはシンプルにネガティブな恥ずかしさの感覚を持っている。気持ち良さは、流れが整っていく感覚の部分、例えばグラフィックデザインの最後の詰めの作業みたいなものを、純粋に気持ち良く何時迄もいじっていられるような変態さである。多分終わりの設定がなくなってしまうことで、気持ち良さのピークが見えなくなってしまう。山の頂上が延々と斜め上に後退でもしていくように、そして、その小さくなり続ける頂上を見上げて途方に暮れ押し寄せる快楽に膝を震わせながら立ちすくむのである。

大袈裟に書いた。まぁ、実際ある程度まとまるところまでのやりとりではある。

そもそもの文章を書いている目的に関することだが、ステージがこれだけ慎ましい場所ではあるので、文章を書くことについて、考えをひけらかそうというような意識よりかは、自身の考えを書き出す、考える場面で、同時に僅かにでも他者の視線の意識を持つことについて意味を感じているので、手元にあるノートみたいなものとは違った形でこの場所を捉えている。とはいえど、僅かではありながらネタを見せたいというような欲動は勿論ないわけではなく、それがまずはあってなにかを書こうというトリガーになっているだろうと思うので、まずはアップロードのタイミングでのなんらかの快楽のピークはあるものと思われる。ただその快楽は本物ではないのである。本物はその後ろに巨大な体躯を持ってじっとりと控え、ねっとりとした眼差し、指の先、手練手管で待ち構えているのである。

さて、この文章もとりあえずアップロードまではできたということだ。

アップロードまでは他者に対しての、アップロード後は自己完結したあれなのだと思う。これは違うものだ。