出自に囚われるのがどうのこうのと否定的に書いてしまったけど、そうまで言うものでもなかった。他の世界を知ることはそう簡単にできないが、目的へのアプローチの方法、手続きについて、例えば小説家や、起業家、或いは釣り人などなんであれ、それぞれのジャンルなどによって異なっていくものなのではないかということを考えてみる。そう考えてみると、それでも自分がなんらかの目的について絵の手続きを取っているだろうことについては、引いた視点で見れば特殊なもので、僅かにだけれど、誇りのような感覚を持てる気がするのだった。(今の)自分が否定的に捉えていたことは、絵がそれ自体モチーフになることについてのこと。

そのどちらも含まれる内容になると思うことだが、静物は、モチーフを並べる机と、絵の上との2回、平板上でのある程度限定された要素の範囲内での選択と編集があるものと考えてみる。

そもそも、それ以前の段階で、先ず描くか描かないかの選択肢の可能性を自分が引き受けてしまっているからややこしくなっているのだけれど、反対の方向性として、範囲や選択肢を限定していくことに、その中での微細な選択の差異から、可能性が広がって「感じる」ということについて極めて普通のことだけれど、思いを馳せてみる。

そして、また少し違うものごとで、これもまた普通の考えなのだろうけれど、フレーミングという手続きなんかについてもそういう作用を孕むものと考える。

どちらも絵の話だけに限ったことではないものとして。