20210824

ワードプレスのテーマやらを更新したら、サイトの見た目が少し変わってしまいました。少し使いづらくて不本意だけれど、とりあえずはこのままにしておく。メニューをテーマにあわせて少しだけ調整しました。

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展示のとき、作品でザリガニ使ってるやつはちょっと感じ違くないの?という話があって少し思い返している。確かに使ってる媒体自体に作品内容がそんなに絡んでないから、それぞれの媒体を扱う必然性みたいなものは薄いし、フィクションの舞台の境界みたいなものはそれらの影響からかはっきりしている。

舞台や枠組の境界が明確なことには、やはりどこかで気になってしまう節があって、例えば映像のプロジェクションとかを作品で今まで積極的に扱ってないのは多分にそういう意識が働いている。とはいえ、さすがにこれだけ舞台的になっているものを有りとしているので、それであれば結局たいした違いはないわけで、今なら、試してもよいのかもしれないと思うようになってきている。

頑張って現実との折衷点を下げることはできても、作っていることに意識的な時点で完全な現実ではないものなわけで。

そういえば、どうしてああいう形式で作ったんだっけと、考えていて忘れてた諸々を思い出してきた。タイトルとオブジェクトの関わりや、視覚的な詩みたいなことを考えていく流れで、文章使うのなら台詞を使ってみるかとなり、タイトルが台詞になっているものを作って、、なんて流れだった。確かその後、空間で言葉を見るときの、鑑賞者との距離をフィックスさせてしまう言葉の媒体の特性について気になってきて、もう一度それに囚われない空間を考えたくなってきたことがあり、とりあえず一回棚に上げてしまうかと思い今に至る。という感じ

そういう流れは大事なことだと思うが、仕事の繁忙期なんかを挟むと、こういった意識の連なりがぶっつりと断ち切れてしまい、なかなか繋がっていかない。これは、悲しいことなのだけれど、そうでもしなければ生きていけないので、こればかりはやむを得ない。

ただ、その辺で作ってた作品の形式は、いまでもなんとかしようとずっと頭に引っかかっていて、どこかでまた手をつけたいと考えている。

どちらかと言うと今扱っている諸々について、負い目くらいの勢いでモチーフの貧相さとでもいうのか、モチーフの形式依存みたいな部分について気になっていて、だから何回も写生が必要とか書いてしまっているのだと思う。(ないものねだりと思うので、逆を向いていると、こっちが恋しくなるものだとも思ってはいる。)

もともと 絵を描きたい がスタートな人間なので、絵が形式についての言葉である以上、そもそもの目的が、その時点からメッセージではなく、修辞かそれ自体なんだろうというのは、いつかのタイミングで自分に決着をつけていることではあるのだが、事あるごとに絵についてのモチーフに戻ってきてしまう度、もやもやとした虚無感が滲み出てくるのである。まるでこのグズグズした文章みたいに。

絵を描くという潔さを持てないくせに絵に囚われてしまう。或いは、出自や属しているものに囚われているのかもしれない。なんだかそれはさらに悲しい。