20210806

美術と関係ないポストも必要。前に書いた写生についての考え方。話題が美術のことだけになっていくと、自己言及に籠りすぎて、多分に可能性を大きく制限してしまう。そういう方向性を否定しているわけではないけれど。気がつくと自分は籠るほうに陥りがちなので、そうして外を見るようにしていた方が良い。

こうやって文章を書くことは、自分にとってエクササイズ、いや、今ならワークアウトなんて言っちゃった方が良いのかしら。ともかく、ドローイングと同じような位置付けではあるので、風景の写生としてもっとやりたいことだったりする。そういえばドローイングの方はしばらくやってない、、。

以前にも、確かここで書いたと思うのだけれど芸大の助手やっていたとき、研究室の海外交流のプログラムで日本に来ていたCSMの学生と話したとき、エッセイがカリキュラムにあるんだと話していた。当時は、いいプログラムなんだろうなぁと思ったのだけれど、果たしてどうなのだろう。

作品を、強引な言い方だけど、映像作品なんかで良くあるような、言語的な暗喩のモンタージュみたいなものと限定してしまえば、効果的な練習方法なのだろうとは思う。(そういう限定はしたくないし作品全てそういうものなんてわけはない)ただ仮に作品がそういうものだとしても練習の媒体を言語に限定することがもしもあるとしたら、それは良いことなのだろうか。(CSMのその他のカリキュラムまで聞いてないから限定ということはないと思います。あくまで仮定の話)

言語を思索とかの媒体として、その他の媒体より上位に据えるかどうかというところに関わることな気がする。普通に考えたら物事を考えるのは言語ベースだろうし、例えばアカデミックな場面なんかでは言語ベースで考えなどを議論しないと、ふかふかの考えの定位になってしまう、というかできないだろうというのはわかる。批評みたいなメタな言葉であれば、そこは言語でやった方が良いこともわかる。しかし、少し前からの自分の作品に対しての言葉についての考え方の変化から、そういった練習方法を、良いものと考えるのは変わらずではありながらも、少しだけ疑問が湧いてくるようになったのである。

どちらに捉えるか状況で変わる部分はあるのだけれど、作品に対する言葉がある場合に、それをもう一つの作品のように、同じ階層のものと考えるようになってきている。なんというかそういう考えをベースに考えたら、それって例えばギターのインプロビゼーション練習していたら絵が良くなるみたいなことと同じようなことになるのではないかということ。いや、勿論それでも良くなるとは思うし、そういう考えの方が学校みたいな場所見ているとむしろ大事なのだろうなぁなんてことは思うのだけれど、といっても改めてその最終的な出力の媒体でしか考えられない部分はあると思うわけである、そしてそれを単に技術の問題として片付けてしまうのも短絡的なことと思うのである。

結局また内の話。そうだ、やはり手を動かさ(絵を描か)ないと。