見返してみたら悲しいくらいおんなじことを繰り返して書いているもので、

頭の中が、媒体や構造のことばっかになっているというのは、なんというか、新しいmac欲しいけど、実はとくに使う目的はないみたいなことになんだか近い。

まぁ、自らそういう時期と考えていた部分がないわけではない。言葉が空間に入った際の(本とかペーパーとかも含めて)人との物理的な距離のあれこれに対して、改めて空間を考え直したかったことがあり、併せて70’sワナビーになっていたのは意図的といえばそう。(そりゃあシンプルに憧れだってある。。)

ただ、それ以外のことを考えるとなると、今の取り巻く風景を落ち着いてイメージしてみると、なんだかそこから出来上がるものは、サラリーマン向けの漫画が描いているテーマみたいなものになってしまうのではないかと、自分の目の前に広がる風景についてなんとも言えない気持ちになる。

時代劇であれ会社の話であれ、、人の関係や気持ちを量ることやら、意思決定のプロセスやら、、抽象化すれば、ある意味いつの時代で誰にでも関わるものごとだろうから、扱ったら扱ったで面白いのだろうが、仕事以外で仕事のことは考えたくはない。

と、そうなってしまうのは時間のバランスが悪いのがそもそもなのだろうなぁと考える。

案外、好きなこと云々やら、自分にとって深刻なものごと云々というポジティブ、正のモチーフよりか、もっともっと抽象的なものにとか、寧ろ逃げ場としての楽しみとして捉えるというのも良いのかもしれない。見ている風景の裏返し、ネガティブな、負の意味でのモチーフ。(良い悪いの意味としてではなく)

例えば今のコロナはまさにだろうけど、戦争とかもそうなのだろう。環境のストレスが大きいときの1つの方向なのは違いないと思う。これも必然。

結果的に草枕の気分。

このぐちぐちしたメモは、リハビリみたいなものでもあったりするのだ。