自己言及が結果的に媒体の必然性を無くしてしまうなら、それ以外の外側を利用することになるとして やっぱり写生(外側の情報)の必要があるのではないかと考えるようになってきていて、例えば風景なのか、遊びとか趣味とか、はたまた恋か、食事か、政治か、音楽か、数学か、それなら論理的な構造は、とか言って振り出しに戻る。まぁこういうこと考えてしまうのは楽しくなってないからなんだろう。定期のループでもある。

言葉くらい基礎的というか日常的な媒体だと、自己言及やっても必然性がなくなるような印象もないのかもしれない。

絵でのそういうのは、前提が既に特殊性をもっているものになってるところからの何事かだったりしているから、だったら別のもので自己言及やっても良いんじゃないの?ということになってしまうのではないだろうか。

鬱屈してるなら先ずは楽しいことをかくことから なのかもしれない …なんなんだ今の楽しいことって、まったく