20190216

仕事先にあったホックニーの子供向けの本をなんとなく読んでいたらipadのことやゲーム内の風景のことなど、やっぱりそう考えるよなあと思うようなことが書いてあった。

そんなこといって筆を持つことは勿論あるのだが、ビデオやらタブレットやらなんでもいいのだけど、そういうものがいろいろある中でそもそもなんでこの筆を選んでいるのだろうと悩んで、そこでストップしてしまうことが度々あるのだけど、例えばビデオなりを基準に考えたら、ビデオはビデオでなんでそれを選んでるのとなるから結局同じことなのだと考えるようになった。

もう少し媒体や材料に執着が持てれば良いのだろうが、どうやら性質がそうではない。

かといって設計図から比喩のパーツを組むだけのようなものではないのだと最近特に思う。

設計図は見えてしまうと興醒めするのだ

ある方が、確かタルコフスキーの話かなにかで、良い記憶あるのですが内容忘れちゃうんですと言ったことに対し、優れた芸術作品は抽象化しているものなのだと話していたことはそういうことなのだろうか、自立性というのはそういうことなのだろうか。

言葉の並びであれ、色や形態の羅列であれ、あるいは改めてここでそれが組まれた比喩であろうとも、そこに例えば見出された数式や、例えば結晶のような美しさとか、ある種の秩序のようなものを伴ってしまっていることなのではないのだろうかと思う。

そもそも、作品に説明できるスクリプトのようなものがあるにせよ、組んだ比喩なりロジックみたいなものなり設計図みたいなものは頭の中にあるものではなくて、目の前にあるチェス盤(たとえがあれなので、将棋でも囲碁でも、、)みたいな距離感だと思うのだ

意識はもう少し多次元の空間に散らばり浮かびあがる風景の記憶の断片みたいなものがパルスみたいなもので連関づいたようなものだと思うのだ。そして、言葉であれ意識そのものではまったくなく、そういったものを1本のシーケンスに整えた目の前にある別のものなのだと

多分目の前のチェス盤の棋譜を意識するのではなくってチェス盤それ自体(木目とかツヤとか、或いは並びとか)が意識やら記憶の風景のパルスと何故か一致してしまうというようなことなのではないかとか思う。

だから言葉のコンセプトとかいうプロセスを妄信的に行ってしまうと、機械の自動翻訳を重ねて意味が崩壊するような感覚の齟齬を起こしてしまうことになるのだと

もちろんそういうものをやったこともないというような段階は考えない上での話、媒体を横断することでより良い着地点に近づける可能性は上がるだろう。

そしてそれはあくまで着地点であって事前に措定される核心みたいなものは違うと思う。

そこまで意識の側が絶対ではないから

コックリさんみたいな