20171209

覚書

学生の頃から憧れる作家の話を直で聞けるなんていうのはやはり学校ゆえのことなので贅沢な時間、本当に有難い。

直ぐ考えを忘れてしまうので、質問したことをメモしておく。緊張して、クリアーな質問を出来なかった気もするが、これも通常営業

制度干渉は、制度に価値の殆どを依存していて、制度自体そもそも既にある「前提」である以上、発展性がないのではという問い

図で喩えるとして、水平にある制度の円形の範囲みたいなものが仮にあるとし、その境界にもたれ掛かっているようなイメージ。実は範囲を動かすエネルギーではないのではという感覚

詩作の本か、修辞学の本か、そのようななにかを読んでいて 写実、比喩、ナンセンスという時代の発展を見たときに、それは縦軸の動きに思え、制度干渉、メタフィクションみたいなものは横軸の、発展と別種の動きに思えたのだ。

結局、自分の作品でも未だに制度干渉は扱ってしまうのだけれど、そこで落差を作るような作品、とりわけ美術の高尚さの舞台を落差に使うような作品には限界を感じることがあったのだ。

文法のようなことと勝手に喩えてしまったが、答えていただいた人間の大きいスパンで変化しないなにか(というような答えだったか)ということについて思いを巡らせていたのだが、作っているものをそもそも「美術」の設定外で措定しているとしたら、別に美術の制度を使用したところで、それは世界の要素のある一つというだけで、大した問題ではないのか、、となにか思いなおす

というか、そういう態度で制作しようと、少し前に考えていたことを思い出したのだった。

スタンスの取り方が美術外というのが、普通になっていれば見え方は変わって見えるのだ、と思ったのだった。

美術と言われる横軸の区画を包摂する巨大な区画、これが例えば文法とかそういった長期的な効果のある制度といえるのかもしれない、そこへの制度干渉はトートロジーみたいなことになるのだろうか

その視野に立つことなのだろうか

二つめに伺った質問

一つの主体としての作家像についてのこと

関係性云々やらポストモダニズム云々で当然言われていることを今更ではあるのだけど、何故かまた聞いてしまった(ラボでのトークイベントでも同じようなことを質問した)

爪痕と言われていたフレーズが引っかかっていたのかもしれない。

私の場合少なからずモチベーションのある割合を、自己顕示欲が動かしている。恐らくはだいたいの作家とか言うような人種はこういう時代でもこれが重要なモチベーションなのではないのだろうかと思うのだけれど

これが働かなくなっても作品というのは世の中にあるものなのかどうかということ、もし、善の意識を原動力にすることなどといったら恐らく、自分なんかは活動をやめるだろう。

希望の国のエクソダスってそんな終わり方じゃなかったっけ(違う本かも)

メモ

システムの一つになる作家

宗教がイデオロギーに替わっただけという言い回し