参照するh145

このアイデアをやろうと思った段階ですぐに思ったことだったのだが、大森先生に話を伺えた。とりあえず今段階でのメモ書き。

水平線についての話、遠くにあるそれと足元から続く水面と、理想的な線、線を引くことなど。

作品を断片的に拝見している印象から感じていたことと伺えた内容と繋がって興味深いとても貴重な話を聞けた。大学なんていう場所に身を置いていないとなかなかこういう時間を得ることは難しい。

ふわふわした質問をしている未熟さを反省しつつ、少しずつの反芻。まとめつつ、反射として見る自分の考えを明らかにもして行くことにする。

しばらく前から考えていたことなのだが、話す  ということは紙に線を引くことと近いのかもしれない、表出したものでこちらの意識みたいなものを固めていくように思うのだ。

大森先生の話の中に確か、境界線を引くというフレーズが出ていたと思う。曖昧な個体の境界を引くと捉えたら良かったのだろうか。

話す、聞くことで差異を明らかにし、こちら側の考えもまとまって行く過程はそれこそ境界線を引くことに一致するのかもしれない。緊張を伴う行為だ。

分節するというのはこういうことなのだろうか?(勉強不足)

そして境界のこちら側をかえりみる。自分の扱っている線は、遠くにある水平線でも、主観的に引く輪郭線でもなく、平均化されたグラフみたいなものであるように思えてきた。伺った話にあった、入って行くような意思で見る対象でもなく、相対化する為の指標とでもいうのだろうか。酒井さんとの会話や、他の展示参加者の作品の印象からのフィードバックから、何故だか古風な社会の強要してきたなにかのようにすら感じてきているのである。なんだか今ではジョージオーウェルの1984まで頭に浮かんでしまっている。

境界を分かつ線を引く意思は私にあるのだろうけど、この線を引く意思は、「私」にはないのだろう。一般化された全体の引く線。(ここでいう私は主体みたいな意味で。)

意識や考えを蒸留できるかもしれない。

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初めはわりかしポジティブなモチーフと感じていた気がするのだが、今は反転してきている。多分一致と、多様性と、どちらに重点を置くかで見え方が変わる。恐らく周囲の作品の状況によっても見え方が変わる。ただ、これは作品のあり方としては良いなと思う。プロパガンダは伝える内容以上に作品としての意味は広がらないと思うのだ