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おこがましく、大人気ないのは重々承知なのだけれど、人間なのでアイデアを身近なところで、これ使われたなと思うと本当に残念な気持ちになる。

それは当然逆の立場だろうとそうなので、自分が似てしまったことなどに気がついたときは最低限の礼節として、その方に一声かけたりするよう努めている。

表現というのは、恐らく言葉がそうであるように、こちらから誰かに対しての表現の意思がある以上、相手に共通認識されていると信頼している文法や語彙を使っている。それは美術であろうと同じことで、キャンバスにのった色が絵画という表現であるとされるのもそれであり、その時点で前世代の形式を参照や引用をしている。だから、ゼロから起きる表現なんて生まれた赤ん坊が母親に笑いかけるとかそういうものしかないだろうと思うのだ。

テクニックを棚に上げて言えば、デュシャンのモナリザも例えばなんらかの風景画なんかも、参照している元が、モナリザであろうが、風景の美しさであろうが、それを作家が動かしたダイナミズムにこそアーティストの価値を判断すべきと思うので、同じような扱いで捉えている。

参照という言葉が、今頭に常駐しているので、思う。美術大学出身なので、所謂論文を書いたことがなく、経験してない物事なのだけれど、学問の世界で論文を書くときに、厳格に自分の考えとして進んだ部分を明らかにするために、参照や引用を、出典を明らかにするというのは、先の知性に対する敬意のはらいかたとして、学問の世界の築いてきた素晴らしいシステムだと思うのだ。

ニュースかなにかで、世の中の大学のランキングの評価基準の一つに論文が他でどれだけ参照されたかというのがあると聞いた、それも知のあつかいとして適切な方法のだろうなと思う。

画集やらに書かれる評論なんかを見ていると、参照されただろう作品が小さい図版でつけられたりして、分析されたりしているけれど、これって作家自身でもやっていいことなのではないだろうか?

ソースを隠すような時代ではないと思う。