随筆

客観的に自分の作品見れていないわけでダメなのだと、言い訳から。

イメージと言葉を扱う作品をしばらく作っていて、今迄意識できてなかったのだけれど、最近そういった内容の展示を見る度に思うのだが、私は文を読んでいるときは絵を見ていなく、絵を見ているときは文を読んでいない。

で、二つを頭のなかでまとめたころには疲れてしまう、下手するとまとまってすらいない。

前に先生がいまだにそういうものを作るときうまくいっている気がしないと言っていたことを思い出したのだった。

確かにそういう形式で一つの強さとして見れる作品というのは貴重なのかもしれない

とはいえマグリットやらブロータースなんかはやっぱりきれいだなぁと思うわけで、そりゃあ凄い作家だから諸々うまくできてるわけだろうが、単純に文の量の問題?と考えてみる。長いテキストであればあるほど、併置されたイメージとの行き来は難しい。

展覧会という形式でなければ、そして本や映像という形式であればそういうことを感じることは少ない。見るときの時間の使い方の異なる媒体だから同じ地平で考えることは難しいが、編集について意識してみることは重要な気がする。勉強になることかもしれない。

リサーチワークみたいな成果物のインスタレーションなんかは尚更、文と視覚的な要素を同時にはなかなか見れない。情報量の多さは言わずもがな

展覧会というのは、体力的に鑑賞するのに2、3時間がいいとこというそもそもの制約のなかで、未編集の本何冊か分の情報量なんて押し付けられても、負担のほうが印象として残ってしまうよなぁと思う。

閉館時間に焦ってしまい、ディテールまで楽しんで読み込もうなんて思えないのだ。なんだか寂しい。

しかしそう考えると展示という舞台での最適化された編集はあるはずで、なんというかこの不満を下手だったからというところで終わらせてしまって良いことなのかもしれないけれど。