随筆

なんだか友達がネットで、簡単な言葉で説明できないのはその内容を理解できてないことだ  というような記事をシェアしていて、最近思うこととリンクしたので書く。

ある程度ちゃんとした仕事をするようになってから言葉のクリアーさをことさら意識するようになってきた。一人でする仕事なんてものも世の中にはあるのかもしれないが、ほとんどの仕事では誰かと言葉を介して情報を伝達しなければならなく、それの重要性は言うまでもなく高い。

簡単な仕事だろうと、伝達が不透明だとそれを理解することに物凄いロスが出て何倍も厄介な仕事になってしまう。

そりゃあ義務教育で国語をやるわけだと思うのだ。

そういえば、特に尊敬してなかった人から電話越しに仕事の指示を受けたときにあまりの明解さにそれだけでこの人すごいなと思い直したことがあった。

はじめの記事はエンジニアについての話だったのだけど、昔厨二な意識でプログラミングなんかをやる人の心得みたいな記事を読んだときにもそのようなことが書かれていたことを思い出した、またそういう人々は日常使う言語でも明瞭さについてシビアにとらえていると

プログラミングの言語も、会話で使う言語も情報をクリアーにするときの意識は同じようなものなのだろうというのはなにか解る。

そしてここからが今まで書いたもろもろを改めて意識してしまった原因なのだけれど、最近できないながら仕事で英語を使わないとならない状況が増えてきて気がついたのだった。自分が日本語で言おうとしていることが、実は内容が明瞭ではないのに、言葉を発して(発そうとして)いることに。

以前にグーグル翻訳とかを、やはり仕事の必要性で使い出したときに、よく言われる日本語の主語の省略について実感したのだけれど、そういうことも含め日常話している言葉というのは実はかなり意味のないものなのかもしれない。

こうやってこんなことをわざわざ文にするのは、言葉を器用に使いたいエクササイズとしてというのも1つの理由だったりする。また、あえてこうやって書いてみて逆に思ったのだが、案外意味のない言葉という存在も悪くないものなのかもしれない。

情緒というか愛おしさというかなにかそのような感じで

そして表現というのはやはり内側に、意識にそもそもあるものではないのだろう